染まれ


 頭上から降ってくる水が、肌に、タイルにぶつかって音をたて、神を、顔を、肩を腕を胸を腰を足を裏まで伝い、排水溝へと流れていく。
 彼はただ、その様子を一心不乱に眺めていた。
 まるで、目をそむけた瞬間何か恐ろしいことがおこるとでもいうように。

 まばたきもせず、すいこまれていく水を見ていた。



 ――だって汚いの。



 頭の中で少女の声がする。



 ――汚いから、洗わなくちゃいけないの。



 怯えた少女の声。



 両手に水を溜めてみた。

 手首から、指の間から、どんどんこぼれていってしまう水。



 ――真っ赤なの!


 染まっていく。

 溶け出して。
 赤黒く、水が染まっていく。



 ――汚い、汚い、汚いっ。


 こぼれだした水も紅く。
 腕を、足を、身体中を伝う水も紅く。



 ――おちないよぉ、なんで? なんでおちないの!?



 排水溝に流れる水も。
 ――水?
 真っ赤なのに?
 どす黒い禍々しい紅なのに。
 これが水?


 違う。


 これは…………血の色。


 誰の血?

 降ってくる水は透明。
 触れた瞬間紅く染まる。

 誰の?


 わからない。
 だってもう、何人殺したのかさえわからない。

 浴びすぎた返り血は、憎しみ、怨念は、もうおちきらないほど置くまで身体を染め上げている。
 だから、水はずっと紅いまま。

 おちない。
 おちるわけがない。









「アスラン!!」

 耳をつんざくような声と、骨まできしむような腕をつかむ強い力に、現実に引き戻された。


「キラ?」

 真剣にアスランを睨む同居人に、アスランは首をかしげてみせた。

 何をそんなに怒っているのか。
 本気で怒っているらしい彼には悪いが、そういえばこうやって起こるキラを見るのは久しぶりかもしれないと呑気なことを考えた。


「キラ?じゃないよ。何やってるの!?」

 怒鳴っている、というよりは悲鳴に近かった。

「何って……、シャワーを」

 答えてから大切なことに――アスランにとってはこの上なく大切なことにはたと気がついた。


「ってお前何やってるんだよ、服のまま。濡れてるじゃないか」

 それがいけなかったらしい。
 うつむいたキラが口の中でなにやら呟いたかと思うと、聞き取れなかったアスランが、何だと聞き返す前に、どんと鈍い音に続いて肩から背にかけて息がつまるような鈍痛が襲った。
 つかまれた肩が痛くて……熱い。


「君さ、自分が何してるのかわかってる?」
「キ……ラ?」
「頭おかしくなった? この時期に水浴びなんて自殺行為だ!」

「…………え?」





 
 自分が何をしているのか根本のところで、あるいはキラと同じ次元の話では理解していなかったアスランをキラはバスタオルでくるんで、寝室に連れて行くと、その場で毛布に包んでやった。
 どれぐらいの時間冷たい水にうたれていたんだろう。
 芯まで冷え切って、思い出したようにふるえだした身体は、そんなものじゃ温まりそうになかった。
 いっそ抱いてしまおうかとも思ったけれど、とにかく今は正気に引きずり戻して話を聞くのが先だろうと思いなおした。
 ただ、この状態のアスランを抱くということに対しては、何の戸惑いももてなかったキラも、やはりどこかで壊れているんだろうということは自分でもわかっていた。


 温かい飲み物なんかが妥当なんじゃないだろうか。
 そう考えてアスランをみやれば、毛布にくるまってベッドの上に座り、なにやら考え込んでいるようなので、しばらくはアクティブモードにきりかわることはなさそうだ。
 それでも一応、「ここにいてね」と言い残してキラはキッチンに向かった。


 いや、正確には向かおうとした、だ。


 くいっと服を引っ張る力にキラは振り向いた。
 うつむいたままなので顔は見えない。


「何? 誘ってるの?」


 ココアをつくろう。
 アスランは甘いものがそこまで好んで食べたり飲んだりしないから、砂糖は少なめに甘さ控えめでつくろう。
 そのかわりに牛裕はたっぷりいれて。
 などと考えていたことを全部すっとばして、やっぱり抱いてしまうのが簡単でいいかなと思う。

 ココアなんかよりも確実だし。
 そのまま寝かせてしまえばいいし。
 どこかに行ってしまわないかと気をもむ必要もない。
 いろんな意味で安心だ。



 頬に手をあて、上を向かせる。
 だがその瞳は彷徨い何を見ているのかわからない。
 自分に彼の焦点があわされないことに若干の苛立ちを覚えるが、感情を宿さない瞳はやはり綺麗で、食べてしまいたい。


「キラは……」

「うん」

 とつとつと紡がれる言葉に頷く。

「何色?」


 意図の得ないそれに一瞬眉を顰めたが、キラはすぐに考えるのを放棄した。
 考えてもきっと無意味だ。
 感覚だけでしゃべっているのだから。


「何色に見えるの?」

「わからない」


「じゃあ、アスランは?」

「今は、赤、……かな」


 ああ、とキラはやっとその言葉に少しわかった気がした。
 きっとアスランは、またくだらないことを、血に染まっているだとか汚れてるだとか、どこまでも綺麗なくせに、そんな馬鹿みたいなことを考えていたのだ。
 洗い流したっておちるわけがない。
 はじめからなければ。


 そういえばこの前は雨の中つったっていた。
 今日はまたその時よりも重症そうだ。

 身体は冷え切って、いつもはほんのりと色づいている肌が病人のように青白い。
 果実のような唇も色を失い、痛々しくて、噛み付くようなキスをした。



「綺麗な色だよ。僕は好き」
「キラのほうが綺麗だよ」
「何色かもわからないのに?」

 ふふと笑うと、意外にも真剣な顔でアスランは頷いた。

「キラの色が好きだ」
「僕はアスランのほうが好き」
「俺は嫌い」
「そう? なら」

 一旦言葉をきって、瞼に唇を落とす。


「染めてあげようか」


 優しいキスをいくつか与え、最後に首筋に噛み付いた。
 大丈夫、髪にかくれて見えないところ。
 でも、それは存在を主張するだろう。


「染めて」


 まわされた腕はまだ冷たい。



 染まってしまうといいと思った。

 染まってしまえ。
 どこにいても誰のものかわかるように。


 同時に染まって欲しくないと思った。








 でも…………。
 どうせきっとアスランは、染まらない。


 キラもまた、アスランの色なんかには、染まらないのだろう。







 混ざらなくて、一人ぼっち。
 だからこそ愛しさが募るのだと、知ってはいるけれど。


 だからなんだと誰かが叫んだ。


 どうでもいい。
 抱かせて。
 抱いていて。
 混じってしまったら、君の体温がわからないんだ。




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