太陽が沈むまで

 アスランは今日暇だった。
 帰ってやりたいことも見つからず、手持ちぶさたで、だからといって家にいれば何もしないということができないのだ。
 なんだか時間が勿体ない気がして。

 ただしアスランがいつもと違う道を通ることを選んだのは、そんな理由ではなかった。
 理由、と言っていいのだろうか。
 衝動といったほうがいいのかもしれない。

 だってキラが、と言ってしまえば言い訳がましい。が、結局はそういうことなのだろう。

 単純化するとこうだ。
 キラが昨日、アスランに可愛くないと言った。
 わかってる。
 それ自体にたいした意味などないということは。

 だいたいにして可愛いなんて、言われてうれしい言葉じゃない。
 そして今日、キラは女の子を見て可愛いよね、と言っていた。
 それも、それ自体はたいしたことじゃない。
 確かに自分も思ったし。

 しかし、だ。
 キラは今日その可愛いと言った女の子に呼び出しを受けていた。

 それもわかっていたことだ。
 キラがもてるなんてことわかりきっていたことだ。
 だが、腹が立ったのは困ったような顔をしながら、それでもどこかうれしそうな顔をしていたことだ。
 本人無意識かもしれないが。
 もしかして、もしかしたら被害妄想に近いものなのかもしれないが。

 それでもひとつ事実がある。
 奴は女好きだ。
 某人のようなあからさまなそれではないが、長年付き合っていたら嫌でもわかる。
 可愛い女の子が大好きだ。
 どういった意味であれ好意をもたれるのはうれしいだろう。
 それが可愛いと認めた女の子ならなおさらのこと。

 通常の心理だが、さらに日常的なことでもあったが、それでも気になってしまったのは、やはり昨日の一言のせいかもしれない。
 要はタイミングの問題なのだ。
 しかしだからといってあからさまな嫉妬をしてみせるだなんてことはプライドが許さなかった。
 そんなことをしたって無駄に喜ばせるだけだということはわかっているし、嫉妬しましただなんて口が裂けてもいえない。
 普段気にならないだけ羞恥心が増した。

 だからせいぜいアスランができたことはといえば、遅いキラに先に帰るとメールをいれて、いつもと違う道を帰り気分を紛らわせることぐらいだ。

 ――なんて消極的な。


 そうやって横へ横へと寄り道をしていたら、いつのまにか堤防を歩いていた。
 今まで行ったことのない場所だ。
 帰れるかは心配していない。
 何よりそう大きい街ではないので、適当に歩いていたらそのうち知っている場所にでるだろうし、いざとなったら人に聞けばいい。
 さらにいざとなったら、そこらへんに一泊して帰るとかも意外といいかもしれない。


 ……くだらない。
 そう遠くまで歩いてはいないし、道がわからなくなるまでむちゃくちゃな道は通っていない。
 もともと方向感覚はしっかりしているし。
 最悪の場合キラが迎えにくるとかいうのだってありえないわけじゃない――考えるだけで気が滅入る。


 そんなことしていたら何か嫌なことがありましたと言っているようなものだ。


 本当に一日ぐらいどこか遠くへ行ってみようかと詮無いことを考えたアスランがふと海を見やると、だいぶ傾いてきた太陽の下、波打ち際に座り込んでいる人影を見つけた。
 そこまで小さくない、というか、アスランと同い年ぐらいに見える。

 いや――。
 どこかで見たことがある気がする。
 そう、同じような格好で。
 手を、水に…………。
 赤毛の少女。


 アスランは微かに表情を歪めた。
 心当たりがありすぎる。

 

 少々痩せすぎの、強迫神経症の気があるのではないかと思われる少女。
 名前はそう、確かダイアナ、ダイアナ・パークスだ。ミドルネームがあった気もするが、それは忘れてしまった。

 しかしこれで知っているのが名前と噂のみだったならアスランも、気にはなっただろうが、ここでわざわざ関わろうとは思わなかっただろう。
 だが深く知っているわけではないが、関わりがないといったら嘘になる。
 彼女の感情に引きずられて一度精神のリズムを崩してしまったことを思い出して、少々渋い顔になる。
 

 初めて出会ったとき、その時も彼女は手を洗っていた。
 名前は聞いてあとから知ったのだけれど、どうしても気になったのは、追い詰められたような瞳。
 真っ赤だと、汚いのだといって、おちないのだと泣いて、手を洗う。
 マクベスだったか。
 シェークスピアの悲劇を思い起こさせるその姿が、その声が、その言葉が、アスランを捕らえたのは先日の話。

 


 それでもやはり無視はできなくて、アスランは90度方向転換をして砂浜へと足を下ろした。

 

「君はいつも水辺にいるな」

 後ろから何気なさを装って声をかける。
 足と手を塩水に浸した彼女は首だけで振り返った。
 相変わらず少々、いやだいぶ痩せすぎだ。
 吸い込まれそうに黒い大きな瞳がやつれた顔の中でひどく目立つ。
 たぶん、きちんと栄養さえとればとても可愛い子なのだろうと伺えるが、痛んだ髪やら狂気をはらんだその様子に同級生が嫌悪を示すのもわからないことはない。


 怖い、のだ、たぶん。
 何を考えているのか、何をするかわからないから。


 一度アスランと目をあわせた少女は、しかしそれだけですぐに自分の手元に目を戻してしまった。
 時間におわれているわけではないアスランも、靴と靴下を脱いで彼女の隣にしゃがみこんだ。
 さすがに塩水で濡らしたくはなかったので。
 うちよせる水は刺すように冷たい。

 

 太陽はもうだいぶ傾いて、空は明日の天気を予言するかのように染まりだしていた。

 

「だって洗わなきゃ。汚いんだもの」
「そうかな」


 否定も肯定もせずに水平線へ視線をやった。


「真っ赤なの」


 太陽が水に触れたところだった。
 ここまでくればあとはもう速い。


「あの人の血」


 幼い頃彼がジュースみたいと表現した色に海も染まる。


「見て、私の身体からおちてくの。それで真っ赤に、染まる。なのにとれないの」

 

 ぶつぶつとそれは独り言のようでもあった。
 彼女が見てるのは幻覚か、それとも現実か。

 

「なんでっ、なんで、とれないの!?」


 シンクロしてしまって、その強い思いに引きずられてしまって、同じ言葉を口にしたことのあるアスランは、なんとなくその幻覚を見たような気になったが、やはり彼女が見ているものと同じものを見ているわけではないのだろう。
 結局のところ、人が他人を完璧に理解することはできない。
 仕方がないのだ。
 それはただの事実なのだから。

 

「赤は、暖かい色だよ」


 聞いて、と言って水の中で氷のように冷たくなってしまった彼女の手を握った。
 怒ったような、怯えたような目でダイアナはアスランを睨みつける。
 ふりはらおうとするダイアナの手を、はなしたら負けだ。
 ぎゅっと強く握る。

 はねた水が服に、顔にかかったが、アスランははなさなかった。

 

「聞いて。赤は、怖くない」
「汚い!!」
「それは罪の色じゃない」
「あいつの、あいつの血の色だ! あなたなんかにはわからないっ。あなたは知らない。あなたは、綺麗だもの。私は汚い」


 人を殺したと言っていた。
 おそってきた人間を、親を殺した人間を殺したと言っていた。
 返り血がとれないのだと。
 彼女はとても綺麗なのに。
 なのに、綺麗だから、傷ついた。
 流れる血が誰のものかわからなくなってしまうまでに。

 

「触ってみて」


 彼女の腕をつかみあげて、彼女の頬にあてた。


「暖かい?冷たい?」

「冷たい」

 

 今度はアスランの頬にもってくる。
 いやいやと首をふる彼女の手にはもう力がはいっていなかった。


「あったか……い」
「そう感じるのは君が冷え切っているから。俺は体温低いんだ」

 

 少し落ち着いていき呼吸を確認して、アスランは彼女の手のひらは包むように握った。
 しばらくその状態でじっとしていれば、アスランの熱もうばって、彼女の手がゆっくりとあたたまっていく。

 

「暖かい? 冷たい?」
「ちょっと、あったかい」
「これは、君の温度だ。ここを、血が通ってる証拠だ」


 すっと腕をなでた。


「血がおちないというのなら、それは君の血だ。とまらないのは傷が塞がらないから。間違っちゃいけない。絶えることがないのは生きているからだ。死人の血じゃない。汚い血じゃない」


 聞いてくれてるか、わかってくれてるかはわからない。
 だが理解してくれなくてもいい。
 何かを感じてくれれば。


 彼女は呆然と海をみていた。
 太陽はもうすぐみえなくなるだろう。


「傷を探して。君が、君を傷つけた傷だ。探して、手当てしないとな。君は、生きてるから。生きてるってことは生きなきゃならないってことなんだと、ある人が言っていた。君だけじゃないんだ。俺だって真っ赤だよ」

 

 彼女は綺麗だといったけど。
 赤かったことを忘れてしまえるくらい汚い。


「俺はもう手遅れだけど」

 なによりおとそうという気さえない。
 なくなってしまった。
 彼女を見るまで忘れていた。
 ふと思いだすことがあっても、すぐにまた忘れてしまう。

 

「大丈夫。君はまだなおるよ。だって傷があることを知ってるだろ? 血は消えるよ」


 もう海の赤もあと少しだ。

 太陽が沈んだら。
 悪夢は終り。


「……ここに、いて。あなたは暖かい」


 先よりも多少しっかりとした口調で彼女がいった。
 うんと頷きかけて、やめた。
 アスランがここにいても、彼女は駄目だ。帰らなければ。


「太陽が、沈むまでなら」
「もう、沈んじゃったわよ」

 

 ばかじゃないの何見てるのよと泣きそうな声で言ったアスランは笑った。

 ジュースみたいな赤ももう消えた。


「じゃあ俺は帰らないと」

 

 立ち上がって背をむけたけど、引き留める声はなかった。

 

 

 堤防に上ろうと足をかけたところで差し出された手があった。
 血濡れてることすら気付かない愚か者の手だ。
 握ったけれど、自力であがった。






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