おいで


「おいで」

 記憶をくすぐるやわらかい声が彼の名を呼ぶ。
 ふらふらと呼ばれるままに行ってしまいたくなるのに、どうしてか足が縫いとめられたように動かなかった。

「おいで、――」

 誰の声か、わからない。
 涙がでるくらい優しく、なつかしい声なのに。

 行きたい。


 でも行けない。


 何故。







 目覚めて一番に、夢をみた、と話すアスランの腰にはしっかりとキラの腕がまきついていた。
 言葉を重ねるごとに力が強くなる気がする。


「誰に呼ばれてたのかわかんないんだ」

 でも、と異様に力の入っている、顔の見えないキラの腕に触れながら、ゆっくり言葉を探す。

「たぶん動けなかったのは、お前のせいだな」

 抱きつかれて眠っていたから。
 それはそんな夢を見た理由で、動けなかったのは、ここれに彼がいたから。

「僕が君を縛ってるって言いたいの?」

 首筋に押し付けられた表情はわからない。
 不満なのかと思ったが、口調には一切の感情がこもっていなかった。


「あたらずとも遠からず、かな。お前が心配だから、一人にしておきたくないから、だからいけない」
「アスラン。僕はそんなに頼りない?」
「違うよ」

 子供の時と、根本的なところでちっともかわっていない幼馴染を兄のような気持ちで心配するのも、もちろん否定する気はない。
 でも、もっと深い、いやどちらかというと根深いものなのだ。


「一人にしたら何するかわからないじゃないか」

 二人でも、一人でも、きっとすることは変わらないだろう。
 だったら知っているほうが安心だ。


「今度君に置いていかれたら、今度こそ壊れる」

 桜並木でわかれを告げた、あの日、置いていったのは君のほうだと。
 置いていくより置いていかれるほうが辛いのだと。
 けれどキラはアスランほどには焦がれなかったではないか。

「まさか。お前は一人でも立派に生きてくさ。俺は、記憶になるかな。記憶は時間に風化され、そのうち……思い出さなくなる」

 もっと根深い、強欲なもの。


 忘れないで。
 傍にいて。
 縛り付けて。
 縛り付けられて?


「声に呼ばれてついていけばそこは優しい世界だったのかもしれない。でもキラ、俺はそんな優しい世界なんていらないから、地獄のようでもこの世界でキラといたいと思ったんだ」
「地獄?」
「欲望まみれの世界だから」


 殺し、殺され。
 壊し、壊され。

 そしてまた創るけど。
 更にまた、壊す。


 欲しい。

 たった3文字で。
 どこか狂気のようなこの世界にどっぷりとつかって、その中で一層狂って。
 そうして生きていく。
 なんて甘美な、世界。


「汚い? でも仕方ないね。バイキンはキレイなところじゃ生きていけないんだ」


 静かにそう言い切って、キラはアスランの腰にまわしていた腕をそっとゆるめた。
 そしてそのまま離れていく体温に、アスランはそこはかとない喪失感を覚える。



 世界がくずれていくような不安。
 だからだ。
 だから、行けない。
 行きたくない。


 動けないんじゃなかった。
 動かない。
 縛っているのは自分自身だ。




「アスラン」

 ベッドからおきあがったアスランの視界の中で、キラが部屋おドアをあけはなした。
 くるりと振り返る。
 まばゆいほどの笑顔を浮かべて。
 思わず目を細めた。
 何がしたいんだろう。
 両手を広げて。


「おいでよ、アスラン」

 歌うように、呼んだ。


 動けない?

 まさか。



 行けば、その腕にからみとられてしまうだろう。
 今度こそ、動けないまでに。



 それがどうした。

 望むところじゃないか。




「行かないと言ったら?」

 ちょっとした意趣返しに、そんなことを言ってみる。
 行かないだなんて、そんなこと選ぶはずがない――そんなことは二人とも、わかりきっている。


「自分で選んでいいよって言ってるうちに来たほうがいいよ。じゃなかったら選択権なしで閉じ込めるから」


 キラは浮かべた笑みを更に深くした。
 吸い込まれてしまいそうだ。
 意思だとか、そんなものが全部。

「監禁でもする気か?」
「そう。手枷足枷つけて。首輪もつけてあげる。真っ暗な部屋で」


 だから、と促されて――。


 そっと手をとったアスランが、それもいいと思っていることをきっとキラも知っている。

 でも、呼ばれたから。



 今は行かなくては。





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