エロス
次の授業のため、机の中から教科書を取ろうと手を入れたアスランだったが、予想外の感触に首をかしげた。
何だろうと思ってとりだしてみればそれは、どこにでもありそうな白い封筒だった。
だが、そんなものを机に入れた覚えはない。
つまり、自然誰かが入れたという結論にたどり着くわけだが、見るからに不審な手紙にアスランは眉を顰めるしかなかった。
表を見ても、裏を見ても、その封筒にはあて先もなければ差出人の署名がなかった。
これでは本当にアスラン宛なのかどうかも怪しい。
名前を書かなくてもわかる間柄で、入れる机を間違えただとか。
女の子がよくやっている手紙の交換の一種かもしれないし――ただあれは封筒を使ったものではなかった気がするが。そこら辺の細かいところはわからない。
実際にアスランに宛てたものだと仮定したらどうだろう。
すぐに悪戯と決め付けるのも心がひけるものがある。
たとえば、ただの書き忘れとか――忘れっぽくて適当な幼馴染の姿をみているとそれも可能性からはずしたくはない。
中を見ればわかるから省略しただとか――その場合大した用事ではないだろう。
よく小説や漫画にあるのは、極度の緊張のためそこまで気がまわらなかっただとか――さすがにこれはないだろうが。
そんなことを考えてみるが、とにかくこれを持って途方にくれているわけにもいかない。
もし間違いだったときのことを考えると、自分のことではないが居た堪れなくて気まずい気もするのだが、読まないことには始まらないだろう。
そういえば昔の虐めの手段で手紙にカッターを仕込むとかいうものがあったらしい。
それがこれだったら……、いっそ珍しいので記念にとっておくとかどうだろう。
キラあたりが喜んで解析してくれるに違いない。
いや、くだらないことを考えてしまった。
さすがにそんな古風なことがあるわけがなく、引越してきて日が浅いこともあり誰かにそこまで疎まれる覚えもなかったので、少々安堵しながらさっそく取り出してみれば、四つ折にされた同じく白い紙が出てきた。
味気もそっけもない、というのだろうか。
書いてあることもとてもシンプルだった。
『放課後屋上で待ってます』
これだけ。
これまた表を見ても裏を見ても、さらに封筒を振ってみても、あて先、差出人ともに特定できるものは一切なかった。
とはいえ手書きなのでわかることもある。
癖のある丸みをおびたポップな感じの字は、女の子のものだろう。
それがわかったからだからどうしたというものだが、何人かに聞いて回れあ筆跡から差出人を割り出せるかもしれない――もっともそこまで手間をかける気はさらさらなかったが。
キラに見つかったら最悪の事態になりかねないだろうし。
それに。
どうせ行ってみればわかることだ。
結局本当にアスランに宛てられたものであるのかそれはわからない。
だが、アスランの机に入っていたのだからアスラン宛てと考えるのが一番妥当であることは確かだ。
また行かない、という選択肢も確かに気持ちが悪いものがあった。
大切な用事なのかもしれないと考えてしまうところが、甘いのだと指摘されるまでもなくわかっている。
高校生のレベルであるということも考慮して、別段危険な感じはしないし、ある程度のことなら処理できるという自負もあった。
ただ、なんだかとても面倒なことになりそうだと、思った。
放課後、アスランは不審な手紙の指示通りに屋上に向かった。
どうしたのかとしつこく聞いてくるキラを教室に残して。
呼び出されたのだと言えばついてくると言ってきかなかったのだが、さすがにそれはまずいだろうとおいてきた。
本音を言えばむしろ先に帰ってくれててもいいぐらいだ。ついでに買い物もすませてくれれば尚よい。
が、キラがそれを了承するはずがなく、待ってるよ、だから早く帰ってきてね、と胡散臭いばかりの笑顔で見送られた。
要はタイムリミットがつけられたようなものだ。
遅くなれば――キラの基準での遅い、なのでアスランにはどれくらいなのか正確にはわからない――キラがむかえに来てしまう。
なるべく早く終わらせよう、と密かに心に誓う。
ただでさえ面倒なことになりそうだとか不吉な予感がしているのに、これ以上事態が悪化するのはご免だ。
階段を二回分登ったところに屋上はある。
下校時間までは生徒の解放されているが、昼休みならまだしも放課後など誰も使わないその扉を開ければ、この時期特有の夕方のさわやかな風が髪を揺らし心地よい。
手紙の差出人は屋上を一通り見渡すまでもなく見つかった。
フェンスを背に、極限までスカートを短く折り曲げ、気合の入った化粧をした、見かけた覚えのない少女が一人、すぐ目の前にいた。
他に人はいない。
となれば、彼女だろう。
「アレックス・ディノ君ね。やっと来てくれた」
遅くなったのはアスランのせいではない。
最後の最後までごね続けたキラのせいだ。
「なかなか来てくれないから、もう帰っちゃったのかと思った」
来てくれてありがとうと言って笑う彼女は、決して可愛くないわけではないのに、どうしてかどうしても好印象を抱けなかった。
ありがとう、と言っているにもかかわらず、どこかぞんざいな印象を受ける。
まるで来ることを疑っていなかったような。
「あの手紙は君が?」
「そうよ」
「用件は?」
こういうことは手早くすませてしまうに限る。
彼女の態度を見る限り告白だとかなんだとか、彼女に対してもキラに対しても気まずい思いをするようなことでだけはなさそうなのが救いではあったが。
「単刀直入に言うわ。アキラ君と少し距離をとって欲しいの」
突然の言葉に一瞬何を言われているのか耳を疑った。
拒否されることなど考えもしないような声にも、耳を疑いたくなった。
これは、なんだろう。
所謂キラのシンパとかいう奴だろうか。
まだこの学校に通いだしてそう日はたっていないというのに、かの幼馴染の引力は相変わらずすさまじいものがあるらしい。
これはもう感動物としか言いようがない。
確かに顔も悪くないし――というか可愛らしいし、性格だって優しいし、明るいし、背はそんなに高くないがまだ成長期なのだ、これから伸びるだろう。
納得は出来ないこともないが、なんだか貧乏くじをひかされた気分だ。
言いたいことがあるならキラに直接言えばいいだろうに。
いや、いえないからアスランに全ての皺寄せがまわってきてしまうのだろう。
「何故?」
「貴方がアキラ君にいっつもべったりくっついてるから、アキラ君貴方にしばられて好きなことできてないじゃない」
キラはいつだって好き勝手やっているが。
「キラ君すごくもてるのに、貴方がいるから恋人も出来ないじゃない」
それに一つ言わせてもらいたいのだが、アスランがキラにべったりなんじゃない。
キラがアスランにべったりひっついてくるのだ。
アスランもそれを甘んじて受け入れているから、キラのせいだけにする気はないが、あたかもそれをキラが迷惑がっているように言うのはやめてもらいたい。
人に口だしされることではない。
「貴方だってそうよ?」
そうだろうが、なんだろうが、目の前の彼女にどうしてそんなことを言われなきゃならない?
「今ね、私の親友のジェシカがアキラ君に告白しにいってるわ。きっとうまくいくと思うの。ジェシカすっごく可愛いし。私はジェシカの恋を応援してる。貴方に邪魔されたくないのよね」
どこから、来るのだろう。
この溢れんばかりの自信は。
ぬけぬけと言い切れてしまう感性は。
心底不思議に思われる。
それはもう呆れを通り越して感動してしまうほど。
「そして君は恋のキューピッドというわけか」
そんな自分に酔っている。
恋は盲目というが、恋に恋し、自分に恋する彼女も十分盲目だ。
「話がこれで終わりなら俺はいかせてもらうよ。俺は君の友達の告白を邪魔する気はないけど、俺とアキラの関係は俺アとキラの問題で、君には関係ないだろ」
彼女の言葉は、そう攻撃力があるわけじゃない無知で独りよがりな子供の言葉でしかなかったが、それでも聞いていて愉快なものじゃない。
話は終わったとばかりに、アスランはくるりと背を向けた。
「ちょっ……、待ちなさいよ!」
そうして、まだ話がありそうな――というよりは、アスランの態度に腹をたてたのだろう彼女をその場に残して、さっさとキラのもとに帰ろうと思った。
もし告白がまだ終わっていないようだったら、近くの教室に避難しよう。
さすがにその中に入っていくまで無粋な人間じゃない。
「あ、おかえり」
ふわり、と柔らかな笑顔がアスランを迎える。
教室にはキラ一人の影しかなかった。
「誰からだったの?」
そう聞くキラはいつもと全く同じで、どこにも違和感などなく、彼女の親友とやらが本当に訪れたのか、キラの態度からは推し量ることができなかった。
「エロスから」
「………………プラトン?」
何の話だと首を傾げるキラに、説明するほどの話でもないだろうと思って、帰ろうかと首をすくめて見せた。
「ギリシア神話の方だよ」
「アフロディテの息子の? 弓矢もった危険人物?」
「なんだよ、その言い方」
「だってそうじゃん。怖いよね。人の心操っちゃうんだよ。好きでもない人と恋に落ちるとかさ、どっちも不幸だよ。一人よがりな恋で」
エロス:ギリシア神話の愛の神。ローマ神話ではキューピッド。アフロディテの子で随伴者。翼をもった美男子で、弓矢をもって射ればたちまち激しい恋の虜にする。悪戯好きの、ときには残酷な神。
彼女はエロスとして不完全だった。
キラの心は射止められなかった。
翼をもたなかったせいか、美男子ではなかったせいか。
それはわからないけれども。
「あ、でもあれかな。アスランが僕のこと好きじゃないとか言ったら、僕は悪魔にでも頼るから」
「好きだよ」
「それはよかった。さすがにアスランに矢を向けるのは気が引けるからね」
彼女は無理だったが、彼ならなれてもおかしくないような気がして、だけどそんなことを考えた自分がおかしくて、笑ってしまった。
気が引けるだけ。
きっと弓を躊躇いを見せずに引くのだろう。
残酷な君。
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