衣擦れ


 それはとても、とても微かな音だった。

 普段であれば気付かないような、だいたいにして気に留める価値もない。
 微かな、掠れたような音。


 アスランはソファの上で読んでいた雑誌のページをめくりながら、まるで目が疲れたのだというように一度目を瞑り、しかしすぐに次のページの文字を追いだした。
 読んでいた時間の関係ではなく、すっかり内容が頭に入ってこなくなってしまったのは問題だ。

 ため息を溢して、目だけをあげて時計を見た。
 読み始めてかれこれ一時間だ。
 まだ、一時間だ。
 それでもよくもったほうだと言ったほうがいいのだろうか。

 否、アスランの話ではない。


 内容を読み進める気は残念ながら失せてしまったけれど、開いた雑誌はそのままに、とりあえず右上に載っている図説をぼんやりと眺めながら頭の片隅でカウントを始めた。

 5から始まる。

 ……4……3……2……。


 秒針の音がやけに大きく聞こえる。

 ――くだらない。
 自分で言うのもなんだが、限りなく。
 なんでこんなことにこんなに気を張り詰めなきゃいけないんだか。


 1……。

 ゼロ、のカウントとともに身体を横に倒した。

 コンマ数秒のおくれをもって悲鳴とボスンという音が丁度アスランの横で起こった。

「っうわ」

 ちらりと横目で見やれば、ソファの背もたれにくの字に干された同居人が情けなくも沈没していた。

「ひどい」

 顔をうずめて嘆くそれは潰されてくぐもっている。
 頭を上げる気力さえなくなってしまったと全身で訴えかけてくるそれは、年齢よりも幼く可愛らしくさえあったが。
 そう、ついついさらさらと横に流れる髪を弄んでしまうくらいには。

「ひどすぎる。愛がない」

 まるで被害者のように言ってくれる。
 だがそこでアスランが気付かずにそのまま本を読み進めていればどうなっていたか想像していただきたい。
 まず勢いにおされて本に顔面をぶつけていただろう。
 最悪の場合ソファから落とされてしまったかもしれないが、それは後ろから抱き付いてきた彼が支えるとしても、そこからその腕が、その手がどう動くかは考えたくもない。
 昼間から爛れた生活に持ち込む意図がなかったとしても、アスランの興味を本からキラへともってくるためにはいかなる手段も辞さないだろう。
 
「いきなり襲ってきたキラが悪い」
「襲うって人聞きわるいよ。僕はちょっと抱きつきたかっただけだもん」
「気配を消して近づくことないだろ」

 とはいえ不完全で、ちょっとした衣擦れでアスランに気付かれてしまったわけだが。
 そのほかが完璧だったせいでその音は妙に浮いていたのだ。
 それがなかったらアスランは今ごろキラの腕のなかだったかもしれない。
 それが嫌だとか言うわけではないのだが。


「ちょっとした悪戯だろ」

 悪戯の定義を一度話し合ってみる必要があるかもしれない。

「あ〜あ、なんでバレちゃうかなあ。いっつもあんなにうるさく名前呼んで騒いでみても、ぜんっぜん気付かないくせに。耳おかしいんじゃない?」

 キラはかったるそうに身体をおこしてアスランの横に座りなおす。
 その際アスランにもたれかかってくることは忘れない。
 ぶつぶつと耳鼻科行ったほうがいいよとかとても失礼なことも呟いて。
 結局アスランを本の世界から連れ戻すという当初の目的を達成しているのだから、満足してもいいだろうに。
 本来文句を言いたいのは邪魔されたアスランのほうだ。


「下手に気配消されたりするほうが気になるんだ」
「何? やっぱり軍人として?」

 何をそんなに拘っているのか、キラの機嫌は思った以上に落下しているらしい。
 そんな言葉を持ち出してくるくらいに。
 そんなに気付かれた己の未熟さがショックだったのか。
 それともアスランに避けられたのがショックだったのか。
 おおかた些細なことにも関わらず、きっとキラの心の琴線にたまたま触れてしまったのだろうが。


「違う」
「じゃあ何?」
「キラとの付き合いで学んだことだ。隠れたり隠したりしてる時のキラは碌な事をしない。警戒して当然だろ」


 全部お前のせいだと言ってやると少し考えるような仕草を見せたあと、納得したのか急に笑顔になって、今度こそアスランの首に腕を回した。
 非難されていることの何がそんないうれしいのか。


「やっぱひどいよ、君」


 同じ言葉で言い募るキラは満足そうだった。




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