吸血鬼 1

 走った。

 全速力で走った。


 だけどわかっていた。
 所詮子供の全速力などたかが知れてるということ。
 体力などすぐに使い切って、速度が落ちてしまうこと。

 そもそももとからルルーシュは体力に自信などなく、外で遊ぶよりも家の中で本でも読んでいるほうがずっと好きだった。
 それをこんなに悔いたことはない。


 知識の吸収は楽しかったし、職を選べば体力なんてなくても人の世では立派に生きていける。否、この頭脳を使って世の中を渡るのだと心に誓っていた。 職の分化専門化も進んでいることだし、人はそれぞれの得意分野で身をたてればいいという考えを捨てるつもりはさらさらない。

 それはそれで真実だ。

 けれど、オリンピックなどを見ているとよくわかるが、人類発祥の地であるアフリカ等、正統派人間の方々はみなフィールド競技が悉く強い。
 それは人間が動物であることを意味し、動物の強さとは生き抜く力であり、生き抜く力とは即ち身体能力であることを示す。

 そう、人間は動物なのだ。
 たとえ文化を形成し、どれだけ技術を発展させようとも、結局は。
 本能に突き動かされる、所詮は弱肉強食の世界。


 不条理で、いつだって、冷たい。

 優しい世界を望んだ母。
 せめて穏やかにと口癖のように話していた母は、その言葉の通りただ平穏だけを望み、そうあるべく生きてきた。
 少なくともルルーシュの知る限りではそうだったはずだ。
 ルルーシュはまだ10才だから、最高でも10年分しか、生まれる前のことなど知りえないけれど。

 でも、ルルーシュの知っている母は優しくて奔放で強くて賢くて、そして何より綺麗な人だ。
行き過ぎなほど前向きな面は、反動か考えすぎてネガティブに走りやすいルルーシュは好きだったし羨ましくもあった。
 太陽みたいな人だ。
 ルルーシュにとってはまさしく太陽だった。



 ………無意識に過去形で語った自分が殺したいほどに嫌悪する。
 太陽だった人。

 ルルーシュの知らない過去であっても、絶対に、あんな、あんな酷いことをされるような理由などないはずだ。
 ないはずなのだ。
 なのに……。

 母が一体何をしたというのだろう。
 こんな罰を受けなくてはならないような罪を犯したとでもいうのか。

 穏やかにという願いはそんなにも重たいものだったのか。


 世界は不条理だ。


 けれどこんなの受け入れられるものかと心が騒ぐ一方で、冷静に現状を把握している自分がいた。


 所詮世界なんてそんなものだと。

 冷たく不条理で、人なんて小さなものは翻弄されるしかないのだ。
 すべては時の運。
 どう生きようが何を考えようが、運が悪ければ死ぬのだ。


 そんなもの。


 母が、母が死んだのに、なのに「そんなもの」の一言で括った自分がひどく冷たくて最低な人間に思えて、本気で殺してやりたいと思った。

 

 

 

 

 

 


















 ひゅっひゅっと喉がなる。

 運動になれない身体は案の定既に限界だと訴えてくるけれど、足をとめるわけにはいかないのだ。
もうどれだけの距離をきただろうか。
 疲労は激しく身体はもうだいぶ走ったと言うけれど、おそらくそんなには来ていないのだろう。自分の実力を考えればそのはずだ。

 身体が水分を欲しているのを感じるが、まさかそんなものを持っているはずはない。
 潤いとは程遠い唾を飲み込んだルルーシュは、ふいに頬に感じた感触に空を見上げた。
 ひたっと冷たい……………。
 また、こんどは額に。

 もともと木々が生い茂る森の中、葉と葉の間からこぼれるはずの光がいつにもましてひどく弱い。
 普段から薄暗く不気味なのだが、今は更に薄気味悪さを増していた。

 ぱたっと上のほうで軽くぶつかる音がした。
 おそらく水滴が葉にぶつかってはじかれた音だ。
 ―――雨。

 それは確かに望んだ水分ではあるが、喜ばしいかといえば、これほど腹立たしいものもない。
 空に向かって口でもあけて突っ立っていろとでもいうのか。
 たとえそんなことをしてみせたところで対して喉は潤わないし、そもそもルルーシュには悠長にそんなことをしている暇などありはしない。

 逆に難点をあげようと思えばきりがない。
 雨が降って土が水を吸収してしまえば足元がぬかるんで、ただでさえ遅いスピードがさらに遅くなってしまう。
 こける可能性だって高くなってしまうし、今はまだマシなようだが完全に空が暗くなってしまえばただ進むのでさえ困難になってくるだろう。

 雨とともに風がくればさらに厄介だ。
 そんな天気の中森を歩くのは自殺行為。
 慣れている者でさえ、何かしらどうしても譲れない重大な使命でも帯びていなければ足を止める。



 しかもルルーシュだ。

 大人ならまだしも、子供の足で雨の中、あと一体どれだけ進めるというのか。
 たとえ進めたとして、視界が悪くなってしまえばおそらく迷ってしまう。
 そうなれば抜け出すことができなくなって餓死などという可能性も笑いごとではなくなるのだ。


 なれば足を止めるかと考えて、馬鹿な考えだと首をふった。
 ここで足を止めても、殺される。
 追いかけてくる気配は今のところ感じないけれど、彼らがルルーシュを探しているのは絶対だ。
 滅多なことで見逃してくれるはずはない。


 けれど、ルルーシュは逃げ切らなければならない。
 逃げ切らなければ、ルルーシュに未来はない。
 獣道はそう詳しいわけではないけれど、ここは腐っても家の裏側だ。
 何かあったときのためにちゃんと道ぐらいは調べてある。
 もっとも使う機会などないだろうと高をくくっていたのはまずかった。道を知っていても、シミュレートだってしていても、肝心の足が動かなければ全く意味がない。


 それでも少しでも、とルルーシュは胸を抑えながらも足を動かした。

 少しでも、前へ。
 少しでも、遠くへ。

 薄暗い空を見て思う。
 人生は、運だ。
 運さえよければ、逃げ切れる。

 生き抜くことができる。

 だけども、朝は空はあんなにもからっと晴れていたことから考えても、呪われているように運が悪い。



 空を見上げて母が言った。

「今日は絶好の洗濯日和ね」

 楽しそうに、嬉しそうに。


 今日の朝の出来事。
 半日も前のことではない。
 せいぜい5,6時間といったところだ。
 なのに今、空は暗く、母は、いない。


「手伝います!」


 力強く返事をしたルルーシュは、数時間前のルルーシュは、まさかたった数時間後にこんな山道で息をきらせているようなことになるだなんて全く考えてもみなかった。

 母の指示に従って、白いシーツを広げることだけを考えていた。
 母と一緒にシーツを広げ、洗濯物を干し、風にあおられてカーテンのようにひらめくシーツに大変満足した。
 そのあとは二人で掃除をして、それから母が昼食のためにキッチンに入った。

 ルルーシュは母から頼まれて買い物に出かけた。
 小麦粉とバター。
 今日は一緒にクッキーを焼こうと言って。
 それから桃があったら買ってきていいわよと柔らかく笑われたので、桃はまだ固いですからサクランボを買ってきますだなんて澄まして答えた。


 楽しかった。

 何でもない日常が、毎日が幸せだった。


 だからだろうか。
 人生は幸せと不幸が半々なのだと言っていた人がいた。
 ルルーシュは厳密に半々な人などいるものかと、あまりに自分が幸せだったものだから大して気に留めずにきてしまったけれど、もしかして、幸せすぎたのだろうか。
 何事もない日常とは、こんなにも大きな不幸でバランスをとらなければならないくらいに貴重なものであったのだろうか。


 もう、ルルーシュには何もわからなかった。
 太陽が陰ったのが、あまりにも突然すぎて、わかりたくもなかった。


 帰り道、少しだけ雲が太陽を遮った。
 直射日光の中を歩くのは紫外線も強く体力も奪われてしまうので、涼しくなったとルルーシュは少し喜んだから覚えている。

 影を渡り歩くように帰った家で、ルルーシュを迎え入れたのは、母ではなかった。

 正確には、母だけではなかった。


「やめなさい! なにを……っ」
「何? わかってんだろ? っ。おい、何してんだよ、このアマ、ああ? 大人しくしてろっつってんだろーが」
「おいおいおい、ちゃんとおさえてろよ」



 悲鳴と怒声と笑い声。
 一つは母の声で、残り二つは、聞いたことがあった。
 けれど客がくる予定など聞いていない。
 そもそも客人が来て、こんな不穏な空気になるものか。
 となれば彼らは不審者以外の何物でもない。

 聞いたことのある声は誰のものかまではわからなかったが、思い出せる限りいい感情は一つも見当たらなかった。


「やめてっ!」


 命令系から懇願になって、ルルーシュは買い物袋を落とした。
 そこで初めて自分の足が玄関口から一歩も動いていなかったことに気がついた。

 母は強い人だ。
 それは精神的にという意味でもあったが、肉体的にという意味でもある。
 何か格闘技でもやっていたのかもしれない、そこら辺のことは話してもらったことがないので詳しくは知らなかったけれども、男の一人や二人その細腕で簡単に投げ飛ばすことのできる人なのだ。

 背筋に寒気が走った。
 まさか、そんなはずがない。
 頭をよぎった最悪の想像を必死で振り払う。
 あの母が負けるなど、そんなことがあるはずないではないか――けれども、悲鳴は確かに母のものだった。


 がくがく震えそうになる膝に鞭打って、ルルーシュはキッチンのドアにすがりついた。
 手が、使い物にならないほどに硬くなっていた。


 怖い。


 開けたくない。



「誰か!」
「誰か? おいおいよんでるぜ、誰か」
「あ、じゃあ俺でいい? 助けてほしいかい?」


 男たちの笑い声。

 ――助けてっ。

 ドクンと心臓がなった。


 助けて。


 それは初めて聞いた言葉だった。
 そんなすがるような声は知らなかった。
 そんなよわよわしい声は、母ではなかった。


 助けなければ。
 母を、取り返さなければ。


 理性ではもしかするとわかっていたのかもしれない。
 そのドアの向こうにいる男たちは最低でも4人。
 母でもかなわないのならば、ルルーシュに何かができるはずがない、と。
 本当に取り返したいのであれば、正しい行動はここでドアをあけることではない。
 開けてルルーシュまで囚われてしまってはどうしようもないのだ。

 とにかく助けを呼びに行かなくてはならない。
 ルルーシュでは、何もできないから。
 そう、わかっていたのかもしれない。

 けれどもできなかった。


 焦りのままにドアを開け、そして――。


「母さん!」


 床に押し倒された母の身体。
 乱れた髪が床に散る。
 服が破られていた。
 頬が腫れていた。
 太ももの肌が無残にも切り裂かれ、手のひらに刺さったナイフが彼女を床に縫いとめる。


 男は全員で5人。
 すべて町のものだ。

 ひどいという言葉すら出てこなかった。


「っあ、ぁ、う、ぅあ……」


 緩慢に母の顔がルルーシュに向けられる。
 ルルーシュと同じ色の瞳が、濡れていた。
 頬を腫らし、唇の端からは血が流れ、けれども、それでも母はルルーシュを安心させるかのように微笑んだ――ように見えた。
 実際はそんな時間などなかったに違いない。


「ちっ、子供が帰ってきやがったか」


 すぐに男の視線がルルーシュに集まった。


「あん? 別にいいだろ。殺しちまえばよ」
「それもそうだけどよー。なんか興ざめじゃねえ? 邪魔しやがってこのくそガキが。先にかたずけときゃよかったぜ」


 母の上に馬乗りになっていた男がめんどくさそうに舌打ちをすれば、勝手に人のうちの酒を漁ったのかワインボトルをラッパ飲みしていた男が笑った。

「じゃあ俺がやっていいか?」
「その前にこいつも犯さねえ? 男だけど顔だけはいいしさ」
「ばあか、その前に子供じゃねえか」


 それは戒めているのではない。
 煽っているのだ。
 もうモラルも何もない。

「大丈夫だって、穴はあっから」


 随分前から何かにつけては絡んできていた男だ。
 ルルーシュも前に一度蹴られている。
 たれ気味の目が細められて鳥肌がたった。

 気持ち悪くてもあったけれども、恐ろしくて。


「お前も好きだね」

 肩をすくめた男は、妻も子供もいるはずのに。

 何故、と思う。
 彼はルルーシュたち親子に親切だった。
 彼の妻も母とは仲良くしていて、子供はまだ3つで。
 妻よりも少し年上の彼は、それでも妻ととても仲睦まじく、母も羨ましいわねと言っていた。
 何故、その彼が。
 彼は、本当に彼なのだろうか。
 悪魔にでも食われてしまったのではないだろうか――真剣に考えた。
 それとも、この間男手がないと大変でしょうと言って窓の修理をしてくれた男は、裏ではこんなことを望んでいたのか。


 伸びてきた大きな手に身体がすくんだ。


「ルルーシュ」
「かあさ……」


 ルルーシュの名前を呼んだその声は、いつもの母の声だった。

「逃げなさい」

 母の手が近くに転がっていたビンをつかんで投げた。それはルルーシュをつかまえようとしていた男の後頭部に直撃し、男の意識がそれた。
 他の男たちがすぐさま反応するが、通路はせまく、ルルーシュにたどり着くことはない。
 ぐらりとふらついた男の身体を乱暴に押しやり、新たな手が伸びてくる前に、ルルーシュは背を翻す。

「何しやがる! ざけてんじゃねーよ」

 頭にビンを投げつけられた男が激昂して、母の手に刺さっていたナイフを抜き取って。


 そしてそのまま胸元に刺しこんだ。



「ああああぁぁぁぁぁあ」


 目を大きく見開いて、絶叫を迸らせたその顔が絶望に染まった。


 それが、ルルーシュが見た母の最期の顔。
 瞳から急速に光が消えていくなか、生きて、と声はなく口が動いたのがわかった――読唇術などできないはずなのに、それだけはどうしてかわかった。


 逃げたくなどなかった。
 けれども「逃げなさい」と命じられた身体は、なんの躊躇いもなく裏手の森に飛び込んだのだ。









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【言い訳】(反転)
吸血鬼書くぞ宣言してから一体どれほどの月日がながれてしまったのか……。しかも吸血鬼でてきてませんしorz
暗い短いどうしようもないの三拍子がそろってます。ご注意ください。