Scarborough Fair (23歳+波江)



 最近、どうにも様子がおかしいなと、確かに思わないでもなかった。
 ふいに黙り込んだり急に笑いだしたりその後に重いため息をついたり。
 あげてみて、普段からそうじゃないかと思い直したが、それにしても情緒不安定だった。とりあえず生理と決め付けてみたものの、やけに長いなとはやはり思わないでもなく。
 けれど別にどうでもいいわ誠二に関係ないことだもの、めんどくさい係わり合いになりたくない、なんて思ったのが悪かったんだろうか。
 …………悪かったんだろう。


 しかしどうにかしてやろうと思ったところで、自分に何が出来ただろうかと考えてみれば、これに何かしらの影響を与えられたとは思えないと結論がでたのでやはり何もしなくて正解だったと思い直した。

 だから何が悪かったかと言えばやはりさっさと帰ってしまわなかったことだろうか。
 仕事が片付かないからといって日付変更線を越すまで居残っていた己の律儀さを恨めしく思う。
 雇い主がふらふらと遊んでいる間に、身を粉にして働いていたなんて馬鹿みたいだ。


「うふふ、あは、ふひゃひゃひゃひゃひゃ」


 奇妙な笑い声をあげて転げ回るそれを見るにつけてそう思う。
 心底思う。
 なかなか帰ってこないと思ってはいたが、まさか酒浸りになって帰ってくるとは思わなかった。最悪だ。これが遊んでないで真面目に帰って仕事していれば波江は今頃はもうベッドで安眠できていたのだと思うにだに忌ま忌ましい。


「なみえ〜、みずぅ〜」


 酔っ払いに逆らうのも馬鹿馬鹿しく、何も言わずに水を注いだコップを差出してやりながら心に決めた。
 介抱代含めて残業代は三倍要求しよう。
 どうせ金なら腐るほどもっているのだ。



「あ、そうだ。お留守番の波江さんにお土産買ってきたんだよ」


 見て、とやけに楽しそうに告げ、雇い主こと折原臨也はその手に持っていた袋を押し付けてきた。
 中身は酒だ。
 それもやけに値がはりそうな。


「残業お疲れ様。波江さんすごく優秀だから大助かりだよホントに」


 なぜか褒められても特にうれしくなかった。
 というか褒めてるつもりなんだろうか。
 まあ土産は遠慮せずもらうけれども。すごく高そうなものばかり並んでいるし。

 と思えば、臨也はグラスを二つ取り出してソファーにダイブしていた。
 まさかと思って眉を寄せる。


「よーっし」
「ちょっと待ちなさい。あなたまさか今から飲む気じゃないでしょうね」


 冷たい口調で言えばきょとんとした顔で見上げられて頭が痛くなった。

 言いたいことは山ほどある。
 今何時だと思ってる、とか。
 私はもう帰るわよ、とか。
 土産じゃなくて自分で飲むために買ってきたんじゃないの、とか。
 それから何より、この酔っ払い、とか。

 でも酔っ払いに酔っ払いと言ったところで無駄だ。
 無駄なことに手間隙かける趣味はないので言うのをやめたが、なんだろう、なんだかすっきりしない。冷静沈着な己をこの時ばかりは少々恨めしく思った。



「え、駄目? 波江さんと飲もうと思って買ってきたのに。明日休みにするからさー。ほら、無礼講無礼講。せっかく一緒に働いてるんだから親交を深める機会があってもいいと思うんだよね。福利厚生っていうの? うんうん俺って社員思いだよね」
「基本的に勤務時間外の上司の誘いって迷惑なものだわ」



 対する臨也はるんるんと歌でも唄いだしそうなほど機嫌が良い。
 そういえば臨也が酔っているところなどはじめてみた。

 商談でアルコールが入ることもあるが顔色一つ変えていなかったというのに、こんなになるということは一体どれだけ飲んだのか。
 明日二日酔いになっていればおもしろいのにと思うがそうだ、明日はつい今しがた臨時休業になったのだった。まあ、そう考えればぐだぐだで仕事にならない人間の世話をさせられるよりはいっそここで高い酒を飲むだけ飲んで明日の臨時休業を昼まで寝てたまには怠惰に過ごしてみるのもいいかもしれない、というか大分マシだという気になってきた。



「波江〜、波江さ〜ん」

 しぶしぶため息まじりながら開き直ってソファーに腰を下ろした波江に臨也の腕が絡みついてきたが冷たく振り払った。
 酔っ払いは気にせず楽しそうに笑っているが。


「何飲む? 波江さん何好きかわからなかったから色々買ってきたんだ〜。ワイン、シャンパン、日本酒、ブランデー。ああそういえばこないだお客さんからもらった貴腐ワインもあったね」
「焼酎はないの」
「うわ、波江さん焼酎飲むの? 何? 何? うちで一人でやけ酒したりとかすんの? あはは、やってそー!絶対似合う」


 酔っ払っていても人の気を逆なでするようなことしか言えないのか。がっかりな人間性だ。
 波江はとりあう気も起きず、端的な言葉を選ぶ。


「あるのかしら。ないのかしら」
「……あっちに楽酔喜酒があったと思うけど。せっかく買ってきたのはオール無視?」
「なら全部もらって帰って家で飲むわ」
「それじゃ意味がないよ! 俺と、一緒に、飲もう!」


 なんだこの面倒臭い生き物は。
 大して赤くもなってないくせに、テンションだけ無駄に高くて。
 いや、普段から甚だしく迷惑な方向に吹っ切れてはいるが。

 酒の肴の定番は上司の悪口だろうにその上司が相手では話にならないとぼやきながらも、一本10万ともいわれる限定酒を躊躇いなくあけ、一気に煽る。
 まさかこの女と対面で酒を飲む日が来るとは思わなかった。



 ちらりと顔をみやってしみじみと思う。

 染めたことはないらしい柔らかそうな黒い髪、釣り上がりぎみだがぱっちりした印象的な瞳、睫毛はマスカラつけてビューラーであげてエクステを、付け睫毛をと努力している世の女性を馬鹿にするかのように長い。形の良い鼻も、時に慈愛の微笑みを、時に酷薄な笑みを湛える唇も、本当に容姿だけだったらいくらでも褒めようがある。
 なのに対照的に自分のことを才色兼備と言い放ったり人類全員を愛しているだなんて宣う性格は本当に残念だ。自分でも言うようにある程度容姿が整っているからこそなおのこと残念で仕方がない。

 どうしてこんな風になってしまったのかしらなんて自分のことは大概棚にあげて思った。



「あなたって本当に、心底、残念ね」
「それ、波江に言われたくないなあ」

 ついでにしゃべることもなかったのであくまで親切心で話題提供にふってやれば臨也はけたけたと笑った。
 別に期待など一切していないが、厭味も嫌がらせもまったく通じないのだから嫌になる。
 臨也が本気で喜怒哀楽を見せる相手は一人だ。本人に自覚があるのか知らないが。その他大勢はほとんど楽。どれだけ嫌われようがどれだけ憎まれようが全て悦。

 とんだマゾだ。



「動物ってたとえ兄弟じゃなくても近親相姦避けるための自動プログラムである程度の年まで一緒に育った個体には性的欲求を感じないようになってるんだよ?」
「知ってるわ」
「つまり、俺が人間として残念だとしたら、波江は動物として残念なわけだよ」
「私の愛を性的欲求のひとくくりにされるのは心外だわ」


 もっともそれを感じないのかと言われればNOと答えるわけだが。
 同列に並べられるのは真に心外ながら貴方の愛だってそうでしょうと言えば思わぬところをつかれたとでもいいたげに臨也はウォッカをいでいた手を止めた。
 そして何を思ったか、席を立ちふらふらとキッチンへ向かう。



「ああそうだね。確かにそうだ。愛は恋とは違うもの。愛は真心恋は下心なんてのも大概怪しいけど、見返りを求めるのが恋だとしたら君のは確かに恋じゃないんだろうさ」


 それを言うなら同様にやはり臨也のそれも、恋ではないのだろう――全人類への恋なんて多情にもほどがある。
 人も私を愛すべきとうたっているにしても、結局それは口だけだ。愛すべきと言いつつ、愛してくれと求めてはいない。愛されないのを受け入れているようにさえ見える。ひどく身勝手で一方的な愛。
 きっと、人のことを言えたぎりではないのだろうけれど――わかってはいる。けれど、一つ差別化を諮るとすれば、人は臨也を疎い嫌い憎むが、誠二は波江を必要としてる。決して切れない血の繋がりを持っている。



「波江さんはさあ、最愛の弟の子供を、愛せる?」


 テキーラ、ウォッカ、ジン、ホワイトキュラソー、ホワイトラム。
 無造作に、適当に。
 目分量でおおよそ40度のアルコールを次々にグラスに注いでいく。
 40度の酒を40度の酒で割ったところで40度は40度だ。
 最後にシュガーシロップを1匙。
 気のない様子でステアされたそのカクテルもどきは、シロップをいれようが何しようが結局ただの濃い酒だ。味も何もきっとあったものじゃない。
 エタノールでも飲んでなさいと言いたくなる。
 そう、消毒用アルコールなんかお勧めする。
 あれは確かエタノール濃度80%だ。


「弟そっくりの、弟の遺伝子を半分引き継いだ、君とも血のつながった子供を想像してよ。どう? 愛せる? あとレモンってあったっけ」
「姿かたち、DNA、ね。私は誠二を愛してるのであって、誠二の情報を愛してるわけじゃないわ。他人の女と誠二の子供をどうしても私が愛さなくちゃならないの。でもそうね、それが誠二の大切なものだと言うのなら、守るわ。それは子供のためじゃなくて、あくまで誠二のためよ。レモンは冷蔵庫にあるわ」
「なら、自分で産んだ子なら?」


 仮定の話に禁忌だなんだのというのは関係ない。
 自分と誠二の子供。
 想像してみた。
 波江の肩を抱く誠二。
 波江の腕の中の子供。
 優しげな顔で子供を見つめる波江。
 その波江を愛おしげに見つめる誠二。
 ああ、悪くない。
 悪くないどころか、考えただけで胸が熱くなってしまう。



「私と誠二の愛の結晶を愛さない理由はないわね。でも」

 けれど。
 結局は。

「誠二より愛おしく思うことはないと思うわ」


 愛の優先順位が変わることはないだろう。


「あはは。波江も意外とロマンチストだね」


 楽しげ、というよりは皮肉げに臨也は口元を歪めた。


「子供が愛の結晶なんて保証がどこにあるの? たとえば君が耐えきれずに彼を襲って出来た子とか。あるいは生まれてから彼が我に返って子供を嫌悪した時、君はその子供をどうする? 弟にとって邪魔になるからといって殺してみる? 弟の血を受け継いで、その弟瓜二つの、しかも君を愛してくれる、君だけの子供を、その手にかけるか、捨ててみるのか隠すのか。あるいは弟を――――」



 弟を、何、と言おうとしたのかその先は知らない。
 波江は思わずその耳触りな声を遮ってしまったから。


「貴女、本当は酔ってないでしょ」


 どうもおかしいと、最初から変な違和感があったのだ。
 赤みの差さない、むしろ青ざめたかのようなその頬。
 普段と変わらず饒舌な口。
 そして何よりむちゃくちゃな作り方のカクテルに。



「……酔ってるよ」


 いささか憮然とした物言いは、やはり酔っ払いにしてはしっかりしすぎている気がする。
 顔を歪めたのは波江の言葉を不快に思ったからなのか、それとも喉を焼くアルコールのせいか。


 そうだ、カクテルといえば。


「コーラは買ってこなかったの?」
「波江こそ酔ってんじゃないの。まだ大して飲んでもないくせに。何なの一体」
「ロング・アイランド・アイスティーが作りたかったんじゃないの?」


 臨也が傾けているグラスにコーラを入れれば、一応名の知れたカクテルになることをふと思い出した。
 適当にあるものを混ぜたにしては一致しすぎているので、そのカクテルはまだ作りかけなんじゃないかと言えば臨也は手を振って否定した。


「ああ。だってコーラいれたらコーラの味しかしなくなるんだよね。自己主張激しすぎ。俺コーラってあんまり好きじゃない」


 他の味を消してしまう、それしかわからなくなってしまう。
 だから嫌い。
 何だかどこかで聞いたような話だ。
 それだけ色々混ぜておいて他の味も何もないだろうに。

 不完全な――あるいはなりかけのと言おうか――ロング・アイランド・アイスティーを、そのアルコール度数だけむやみに高いそれを、平気な顔して飲み干すのを見て、波江ははたと思った。



「酔いたいだけって感じね」
「もう酔ってるよ」
「何をそんなにこだわっているのかしら」


 珍しく強情だと指摘してやる。


「波江さん、あのね、俺は酔ってるんだよ。酔ってるから変な事を言うし、道理の通らないことをやらかすし、意味不明なことをほざいて馬鹿なことを正しいと信じてるんだよ」


 訥々と臨也は語った。
 そこには人への愛を語る時のような熱はない。

 成程。
 酔っていたとう既成事実が欲しいらしい。

 つまり、容疑者は事件当時心神喪失状態にあり、社会的責任能力が問えない、なんていう弁護でも望みたくなるような、それこそ最高に馬鹿なことでもやらかしてきたんだろう。
 それが何かと訊く気は浮かんだ瞬間に消え失せた。
 聞くと面倒そうだ。


「ねえねえ波江さん。化け物の子はやっぱり化け物なのかなあ」


 なのに。
 何をしたのかなんとなくわかってしまって。




 波江は高い焼酎を全部飲みほしてしまおうと心に決めた。