Scarborough Fair (修学旅行編)



 眠れない。



 自分は寝付きのいい方だと今まで思っていた。
 枕が変わったら眠れないなんて神経質なところはなく、むしろ布団の上だろうが椅子の上だろうが石の上だろうが、どこだって寝れる自信があったのに。

 なのに、眠れない。
 それもこれも全て、折原臨也、奴のせいだ。


 いつだって、何だって、悪いことは全て奴のせいだ。



 ごろりと寝がえりを打てば穏やかな顔で眠る新羅の顔が暗闇に慣れた目でぼんやりと認識でき、何が悪いというわけでもないのだが腹が立った。
 もしここで「セルティ」なんていう寝言をこぼしていたらその瞬間蹴ってやろうと身構えたが、特に寝言を言うわけでもなく、ひたすらすやすやと眠っているものだから余計に腹が立ってきた。理不尽な自覚はある。
 新羅の向こうの門田も眠ってしまっているらしい。一応、そちらには八つ当たりをする気は一切起きなかったので、門田に迷惑をかけないためという名目のもと新羅を蹴るのは我慢した。

 というか、だいたい修学旅行の夜といえば恋話やなんやで消灯時間をすぎても、教師の目を盗んで盛り上がるものじゃないのだろうか。そのイメージはもはや古いのだろうか。
 いや、恋話なんて引き出しがないし、盛り上がるような話題を提供できる性格でなければ、実際に横で盛り上がられてても入っていけないだろうと思うのだが。
 とにかく今は何にでも当たりたい気分だった。



 眠れない原因はわかってるのだ。
 なれば原因を殴りに行こうかと考えて、溜息をついた。

 基本的に部屋割は3人ずつとなっていて、臨也の部屋にも臨也の他に2人、関係のない人間がいるはずだ――あの臨也がいる部屋となれば、おとなしく眠っているとは思えなかったが関係のない人間を巻き込むのは本意ではない。
 それに、全ての元凶は折原臨也であっても、今回の直接の原因は彼、否、彼女というべきか。女のくせして男の格好をしている酔狂な変態、臨也本人にあるわけではない。


 何故自分は、あの時あの場所に居合わせてしまったのだろう。
 ひたすらに後悔した。だが、後悔なんてものはそもそもしている時には手遅れなものなのだ。


 意味もなく叫び出したいような、手当たりしだいに物を壊したいような、そんな衝動がこみ上げてくる。
 やはりもうこれはもう本人を殴るしかあるまい。



 たとえ本人に直接の原因がなかったとしても、そもそもあれを殴るのに特別な理由がいるだろうか。
 いや、ない――最近反語というものを習った。


 何故ならあれは生きてるだけで、息をしているだけで、何かしらの悪意に基づいた面倒事を嬉々として引き起こす奴なのだ。
 存在しない方が世のため人のため、いや、綺麗事はやめよう。俺のためだ。


 そもそも今回のことだって臨也がいなければありえなかったわけだし。
 そう思うとやはり臨也が悪いのだという気がしてくる。
 あれが、ああだから、悪い。
 全てがそこに集結する。


 殺そう。
 すとんと落ちてくるような結論に布団を蹴飛ばした。









 折原臨也という人間は、基本的に敵が多い。
 おそらく静雄自身が一番の天敵であろうが、それを抜きにしても多い。しかも、その敵を取るに足らない相手と認識している節があるので、なおのこと敵をあおり厄介なことになる。
 今回はそれの典型的なケースと言えよう。


 知ってしまったのは決して意図的ではなかった。
 それこそ偶然居合わせてしまっただけだった。
 先に屋上で寝ていたのは静雄だったのに、彼らがあとからやってきて思わず聞かせたいのか?と勘ぐってしまいそうな話を始めたのだ。
 聞こえてきた単語。不穏な空気。


『折原の奴、マジで一回しめとかねえとな』

 憎しみのこもった声に驚きはしない。
 なるほど、始末してくれればせいせいすると思って聞き流していた。
 助けるつもりなどあるはずがなければ、邪魔する気もわかなかった。
 しかもどうせあいつはこんな馬鹿どもの相手、まともにはしないのだろう――そう思うと気分が悪かったが、だからといって加勢してやるほど彼らに親しみはない。
 きっと手をだしたところで、弄ばれからかわれ最終低に痛い目を見るのは彼らだ。
 忌々しいほどはっきりとその光景が浮かぶ。
 あの苛々する笑い声も。


『今度の修学旅行とかチャンスじゃね?』
『ああ、あいつ浮かれて隙が増えそうだもんな』


 馬鹿だ。
 己も相当馬鹿な自覚があるが、彼らはさらに馬鹿だ。
 増えるのは隙ではなく小賢しい罠だ。
 あれは蜘蛛が糸を張るように、罠を張り巡らせ、獲物がかかるのを今か今かと待ち構え、かかった獲物をいたぶって遊ぶ。
 最悪だ。
 最低だ。
 やっぱり死んだ方がいい。


『馬鹿、そうじゃなくて、夜だよ夜。あいつだって人間なんだから寝るだろ』
『寝込み襲うのかよ。うわ、なんか響きエロいな!』
『榎原も誘おうぜ。あいつも折原に恨みがあったろ』
『カズヤもくるんじゃね? あいつのせいでミキちゃんと別れたとか言ってたし』


 だんだんと増えていく名前。
 エロいな、とは笑っているだけで、要は目的は袋叩きらしい。
 1対複数だから卑怯だと思うことはない。
 ただ、臨也もうざいがあの男たちも蹴散らしたくなるほど鬱陶しい存在だと思った。
 けれどもやはり横やりを入れるほどのやる気は起きない。


 どうせあいつのことだ、言葉にするにもはばかられるような卑劣な方法で撃退するのだろう。
 どうせあいつのことだ、この情報だってすぐにつかんでしまうに違いない。
 どうせあいつのことだ、心配するだけ馬鹿を見る。



 あ、いや、心配なんて一ミリもしていない。



 そう思ってここまで来たのに、いざ今日だと思うと気になってしまう自分がわからない。
 あれがまた癇に障る嘲笑とともに『シズちゃんってばほーんとやさしいよねー』と心にもないことをさも心の底から言っていますとでもいうように仰々しく言ってくる姿が目に浮かぶ。



 でももし万が一。
 万が一、この情報を知らずに呑気に何の対策もせず寝姿をさらしているのだとしたら。
 殴られ、蹴られるだけなら別にいい。
 それだけのことをしてきたのだ、指さして笑ってやれる。
 けれど、多数に寝込みを襲われて、万が一、性別までばれたら。
 何を思って男の格好をして過ごしているのかはしらないが、あれは身体はれっきとした女だ。
 反射神経と瞬発力は優れているが、純粋な力は、弱い。ない、と言ってもいい。
 しかも無駄に顔はいいときている。


 布団の上で、1対多数で、恨みつらみが積もった相手で、しかも男だと思い込んでいたはずが女だった。
 この状況で話がどちらに転がっていくかなど、火を見るより明らかではないか。


 あれは何かを仕組む時はどこまでも用意周到になれる人間ではなるが、自分自身に関する事柄の場合、時折驚くほど無防備に無頓着になれる奴だ。
 それはほいほいと修学旅行に来て、当然と言えば当然のごとく何の疑問も持たずに男部屋に寝泊まりしていることからもわかる。

 絶対にばれない自信があるのだろう。
 でももしばれたら。
 個室という閉鎖された空間であり、いるのは女が一人男が二人。
 その状態で一晩を過ごす。
 男が何をするか。何を考えるか。
 あの女が何をするか。


 あの女は―――――――。



 きっと何のためらいもなく足を開く。


 その様子を思わず想像してしまえば、どこかで血管の切れる音がした。
 もはや本格的に寝ていられる気分じゃない。


 のそのそと起き上がって部屋を出た。













 静かだ。
 微かに虫の鳴き声が聞こえた。
 照明もほとんどない古びた旅館を照らすのは月の光。

 涼やかな風が頬をなでる。
 血の上った頭がすうっと冷えていくのを感じた。



 はて、自分は何故そんなにも苛ついていたのだろう。
 果てはそんなことまで浮かんできた。
 ちらりと臨也の泊まっているはずの部屋に目をやれば、そこも特に何の異変もなく、静かにそこにあった。
 馬鹿な企みは延期か、中止されたのだろうか。
 それともすでに臨也の手によって潰されたのか――これが一番ありえそうだ。

 そもそもあれが、一人が人知れずたくらんでいることならいざ知らず、複数の人間が口に出している言葉を捉えられないなど考えられないことではないか。
 そして降りかかる火の粉をそれと知って甘んじて受け入れるなどあるはずがない。


「あー、何やってんだ俺」


 最高に無駄なことに時間と気力を使ってしまったことを、心底反省する。
 だがやはり今から寝るという気にもなれなくて、ふらふらと廊下を歩いていった先、コの字型になった旅館の丁度臨也が泊まっている部屋の向かい側にぼんやりと一つ、明かりが見えた。
 縁より少し外側、小さな光が宙に浮かんでいる。

 まさか、と思いかけ、いやまさかと首をふり、そんなことを考えそうになった自分を恥じながら何だろうと近づいていけば女が一人、縁に腰かけていた。

 旅館の浴衣を着た、細身の肌の白い女。
 顔はよく見えない。
 ただ、結いあげた髪がはらはらとかかった首と、何かをつかむように宙に掲げてい細い指が闇の中でやけに白く浮いていた。


 うちの生徒だろうか。
 その可能性が一番高いはずだ。
 今日は貸し切りのはずなのだから。
 だがだからといって個人の特定ができるかと言われれば、同じクラスでない限り判別できる自信はない。


 もう一歩近づいて、光が線香花火であることに気がついた。
 掲げた手がその端をつまんでいることも。 
 けれど無心にぱちぱちとなる花火を見つめる横顔は、線香花火の小さく不安定な光ではうまく見えず、あまりじろじろ見てもまずいだろうとすぐに目をそらしてしまったのでやはり誰だかはわからなかった。



「何、してんだ」


 本当は声をかける気などなかった。
 だが、彼女の後ろで足が止まってしまったのだ。
 止まってしまえば、ただ無言で後ろに立つわけにもいかず――そんなことをすれば変質者と思われてしまう――かといってもともと人付き合いが苦手なのでなんと声をかけていいかもわからず、気のきかない台詞をぼそりと呟いてしまった。


 返事はしばらく返ってこなかった。
 同時に去ねとも言われはしなかった。
 単純に反応が一切なかっただけだが。


「………………線香花火」


 小さく燃えていた火が少しずつ大きくなり、パチパチと火花を散らし、そして少しずつ力を失って小さくなり、ジワ、ジワ、と心細げな音をたてて消えてから、彼女はようやく小さくだが口を開いた。
 その間ずっと無言だった。
 彼女はひたすらに線香花火を見つめていた。
 そういえば、線香花火が落ちずに最後まで燃えきったところを初めてみた。
 あまり感動的でもないのだと知った。
 よく弟とどちらが長くもたせられるかなど競争し、だいたいは静雄が負けていたのもいい思い出だが、その時だって結局最後まで見れたことはなかった。落としてしまってがっかりして、次こそはと火をつけて、その繰り返し。
 でも今思えば最後を見てしまわなくてよかったのかもしれない。
 線香花火の最後は落ちても落ちなくても寂しい。
 ならば落ちなかった時はきっと感動的に違いないと希望を持っていたほうが幸せだ。


 彼女の声は闇に吸い込まれてしまうのではないかと思うほどに儚かった。
 線香花火なんか見たからそんなことを思ったのかもしれないが、それはある種のデジャ・ヴを引き起こした。だがデジャ・ヴというものはそもそも大元を思い出せないものだ。

 どこかで聞いたことがある気がする。
 どこだろう。
 どこでもいいか。
 それは今ここで気にしても仕方のないことだ。

 重要なのは彼女の声を心地よいと感じたこと、それだけだ。



 静雄がそんなことを考えてる間に彼女は、次の線香花火に火をつけていた。
 そしてまた小さな火をじっと見つめる。



「好きなのか?」


 また、あまり意味のない問いかけ。
 斜め後ろの壁に寄りかかり、細い首筋を見つめる。
 新羅なんかは首から上のない女を愛しているといってはばからないが、やっぱり女は首から上があったほうがいいなとぼんやりと思った。いや、セルティを馬鹿にしているわけじゃない。彼女は本当にいい女だと思う。どこぞのあばずれとは大違いだ。
 だが、無造作にまとめられた髪が首筋にかかる様は、セルティでは見られない光景だ。



「綺麗なものは嫌いじゃないよ」


 今度は花火が消える前に答えが返ってきた。
 随分とひねくれた物言いだとも思ったが、静雄はふぅんと相槌を打つのにとどめた。
 別にここで彼女の言葉を否定して変な空気をつくる必要はない。


 沈黙が流れる。
 花火が落ちる。
 また次の花火に火をつける。
 何本か繰り返している間静雄はそこで立っていた。
 どこかへ行けと言われたら、あるいは適当に会話をして切りのいいところになったらおとなしく部屋にかえって寝るつもりだったのに、彼女が何も言わないからなんとなくタイミングを逸してしまってずっとそこにいた。


 沈黙は、静寂は、嫌いじゃない。
 騒がしいよりずっと好きだ。
 溢れるような言葉の渦は人を翻弄するだけで真実を伝えてはくれない。
 嘘、偽り、虚構。
 静雄の嫌うそれらを言葉を用いて量産する存在は、大嫌いだ。
 本物を隠そうとするあれが、何より腹立たしい。
 言葉さえなければ、何も隠さなければ、何も偽らなければ、きっと嫌いじゃないのに。

 本物が見たい。
 まっすぐに前から。
 たとえそれが見るに堪えない醜悪なものであっても、偽物よりはよっぽどいい。



 4本目の線香花火が落ちた。
 静雄が来る前は知らないが、落ちなかったのは最初の1本だけだった。
 5本目の線香花火に火をつけた。

 火をつけて、小さな火が少しずつ大きくなっていって。
 そして、空気が揺れた。
 花火が――――――。



 落ちた。





「ああ?」



 見ればずっと線香花火だけを見つめていた彼女が顔をあげていた。
 何を見ているのだと、視線をたどれば、臨也の部屋の前に複数の人影を認めた。



「っいつら」



 行こうか、どうしようか、迷う。


 行けば助けることになるのだろうか。
 行けば、あれは怒るだろうか。

 けれど寝込みを襲うなんてフェアじゃないし、あの女が誰かに組み敷かれてる様を見るのは、とてつもなく不愉快なのだ。
 自分のものだなんて思ったことはない。
 あれが人の物になるような”もの”じゃないことは知っている。
 欲しいと思ったこともない。
 けれどだからこそ、目の前でいいようにされている様を見るのは…………。


 たまらなくなって、駆け出そうとした静雄の足は、小さな抵抗にあって止まった。
 線香花火をもっていたはずの華奢な手が、静雄の浴衣の端を小さく握っていた。
 小さな、小さすぎる抵抗は、普段なら気づかなかったかもしれない。
 それなのに何故気付いたのか、わからない。
 振りほどくのも簡単だったはずだ。
 けれど止まった。


 見下ろせば、彼女は静雄を見ずにやはりまっすぐに部屋を見つめていた。

 黒い影がぞろぞろと部屋に飲み込まれていく。
 そして全員の姿が見えなくなったところで、いや、気のせいだったかもしれない。
 くすり、と小さな笑い声が聞こえた気がした。


「おい」


 声をかければすんなりと手は外れた。
 そうしてまたゆっくりと線香花火に火をつけた。

 溜息をついて壁に寄りかかり、白い首を見つめる。
 もう足は動かなかった。

 乱暴な声と破壊音が聞こえた。
 その後に、困惑したような声と。
 怒りに染められた怒声。
 それから新たな足音。
 懐中電灯を持った教師のまるで待ち構えていたような早すぎる登場に瞠目する。



 線香花火はすぐに落ちた。




「ああ、駄目だね。風がでてきた」



 俗世のことなど我関せず。
 そんなことでも言いたげに、女は足元にあった蝋燭の火を消すと、バケツの水を捨て、もはやゴミとなってしまった線香花火の残骸をまとめて立ち上がった。



「おい、どこいくんだ」
「露天風呂。この時間だと貸し切りだろうなあ。楽しみ」


 女はふふ、と笑ってくるりと一回転してみせた。
 その言動は線香花火を見つめていた時と一転してひたすら俗っぽいのに、軽やかすぎる足取りが浮世離れしている。



「シズちゃんも一緒に入る?」
「ばっ…………………………あ?」


 くっと顔を近づけて、首を傾げて見せたその姿は可愛くないと言えなくもなかったが、発言内容に全てが吹っ飛んだ。
 馬鹿なこと言ってんじゃねーよ。
 からかわれてるのを承知でそう言い返そうとして、ふとひっかかって彼女の言葉を頭の中でリピートした。


 シズちゃんも一緒に入る?
 シズちゃんも一緒に……。
 シズちゃんも……。
 シズちゃん。


 静雄のことをそんな呼び方をするのは世界中でただ一人。



「臨也!」
「あはははは。シズちゃん顔真っ赤だよ?」
「この暗いのに見えるわけねえだろ、適当言ってんじゃんねえ! 殺す!」




 と、宣言したはいいものの、笑いながら逃げ出した背を追いかけるのも急に馬鹿馬鹿しくなってしまって部屋に帰ることにした。
 旅館で女追いかけまわすとか、冗談にならない。
 そういえばなんであいつ女の格好していたんだ、とか、髪はどうなってるんだ、とか色々な疑問がわいたけれども、もう考えるのも面倒でさっさと寝て全部忘れることにした。






 まったく、酷く無為な時間を――――。








 ああいや、そうでもなかったかもしれない。