夢を見た。 何故だかえらく胸糞悪い夢だった。 虫に犯される夢だ――この表現で興奮できた奴とはあまりお近づきになりたくないが、先に言っておく、触手がどうのとか異種姦がどうのとかそういった性的な要素は一切ない。 要は、身体の中を蟲が這いずりまわる夢だ。 これぞ悪夢、と言いたくなるような我ながらもうちょっと想像力働かせたらどうだろうと反省すらしたくなる典型的な悪夢だった。あるいは典型的な麻薬の禁断症状のようでもあったが、クスリをやった覚えは今のところない。 全長約5センチ、広節裂頭条虫、いわゆるサナダムシを思わせるような節状の蟲。ミミズよりは硬く太く、見るからにグロテスクなそれは皮膚の下を這い身体中を蠢き、卵を産みつけ増殖していった。 臨也は少なくともとも自分の腕が食われているのを見て冷静でいられるほど狂ってはいなかったから、そのおぞましさからなんとか逃れたくて、腕を掻きむしり皮膚を傷つけ、肉を抉って蟲をひきずりだそうとしたけれど、ぱた、ぱたと地面で撥ねる蟲が増えても臨也の中の蟲はちっとも減らなかった。 減るどころか増えていく一方なのは、どれだけ引き抜こうとも奴らは卵だけは切り離して植えつけていくからだと気付くまでに時間はかからなかった。 それはすなわち絶望までに時間にかからなかったということだ。 身体を内から喰われる恐怖と苦痛に悲鳴を上げ、のたうちまわった。助けを呼んだかもしれない――誰の名を呼んだのかは覚えていない。しかし誰も助けてなどくれず。横を何人かが通ったが、誰も気にすらかけなかった。いや、声をかけた人間がいたのかもしれないが、そんなことじゃなんの解決にもならない。 死ぬことも、意識を失うことも許されない行き地獄の中、どれだけのた打ち回ったのかよく覚えていない。 嫌な夢を見た。 目が覚めて、夢であったことに安堵しながらもおそるおそる自分の腕を見るが、いつも通り肉付きの悪いそれがあるだけだった。 異常なし。 異状なし。 皮膚の下をはいずりまわる蚯蚓もいなければ、引きずりだそうと自分で傷つけた跡もない。 綺麗なものだ――そういえば最近は静雄との恒例行事もご無沙汰だったことに気がついた。 何故ご無沙汰かと言えば、最近少しだけ沸点が高くなったと噂の喧嘩人形が臨也を見てもキレなくなったとかいうミラクルがおこったわけではもちろんなく、ただ単純に会っていないのだ。まあどうでもいいけど、とここまで考えたところで秘書に冷たい視線を向けられていることに気付いた。 何自分の腕なんかじっと見て、気持ち悪い――と視線が語っていたので苦笑する。 「波江さん、珈琲淹れてよ」 せっかく目があったのでお願いしてみれば、嫌そうに眉を寄せられた――おおよそ雇われ人の態度ではない。 「でも貴方、どうやって飲むの?」 何の話だと首を傾げると、身体、腐ってるわよと、さらりと言われた。 あまりに自然に言われたので臨也もああそう言えば、俺はこの間死んだんだっけと何の疑問も持たずに考えて。 そこで気付いた。 これも夢だと。 「死んでも死にきれないなんて、なんて往生際が悪いの」 しかし変な話だが――夢なんて往々にしてそうだ――往生際が悪いと言われようが死んだ後の死に方なんてわからなかった。 困った。 ぶつくさと文句を言いながらも淹れてくれた珈琲に手を伸ばしたら、どろりとした腐った肉がべちゃと粘着質な音をたてて机に落ちた。 腕を見れば骨が見えた。 うわあグロテスクと暢気な感想を抱けたのは蟲の夢と違って痛みがなかったからだろう――痛みがないのは、まあ、十中八九、死んでいるからだろうが。 さてどうしようか。 このまま生きるなら白骨化するまで外出は控えた方がよさそうだが。 夢の中でも夢を見る。 夢の中の夢、その中の夢の中の夢。 何度目覚めてもそこはまだ夢の中。 一度眠ると夢が一つ増える。 いつしか、自分が夢の中にいるのか現実にいるのかわからなくなった。 実は以前から薄々、そのうちきっとわからなくなってしまうのだろうと感じていたけれど、意外に早かったなと考えるのは冷静だからなのか混乱しているからなのか。 けれどおそらく、やはりこれもまた夢なのだろう。 もういくつめかわからない世界。 うんざりとした気分でため息をつく。 夢だ。 これは夢だ。 何故ならこの世界に二人しかいないという状況は現実ではありえないからだ。 何もない空間に彼と俺、二人だけの世界。 ゾっとする。 同時にゾクゾクした。 二人きりだ。 どんなにあたりを見渡そうと、彼の瞳に映るのは俺だけなのだ。 「どうしたの、シズちゃん」 優しく問いかける。 「死ねよ」 返ってくる答えはいつも通り。 けれどどこか力ないのは、本当に言葉通りになってしまったら、彼が一人きりになってしまうからだろう。 だから更に優しく笑って答えてあげた。 「いいよ」 死んであげる、と。 ああ、そう絶望的な目でこちらを見ないでほしい。 そんな目をされたらこんなシリアスな場面だというのに馬鹿みたいに笑ってしまいたくなるではないか。 「でもね、死のうにも方法がないんだ」 首を吊ろうにも紐がない。 そもそも架けるところがない。 飛び降りようにも建物がなければ地面すらない。 コートのポケットに突っ込んでいた手を広げてみせる。 あいにくナイフもないようだ。 だから――。 「だから、シズちゃんが殺してくれる?」 ことりと首を傾けて。 どうすりゃいい、と今にも消えそうな掠れた声が耳を打った。 胸を打った。 殴ればお前は死ぬかと問われ、それじゃあ駄目だと答える。 縊ればお前は死ぬかと問われ、それでも無理だろうと教えてやる。 じゃあ頭蓋骨を破壊すればいいのかと問われ、そんなんじゃ死なないよと首を振る。 全部ダメだ。そんなのじゃ駄目。この世界じゃそんなことしたって死ねないのだ。 虫に食われようが、トラックに撥ねられて内臓が飛び出ようが全部駄目。 何をしたって死にきれない。 全く面倒な世界だ。 でも一つ、方法がある。 それは誰に言われずとも知っていた。 逆に、それ以外に方法がないということも。 「キスしてよ」 まるで悪魔が囁くように哂いながら言葉を紡ぐ。 「は?」 聞こえなかっただろうか。それとも理解したくないのだろうか。 「キス、してよ」 もう一度、ゆっくりと繰り返した。 「シズちゃんがキスしてくれたら、愛してくれたら俺は死ぬよ。きっと死ぬよ。死んでしまうよ」 人間の身体は化物の愛を受け止めきれずに壊れてしまう。 化物の愛が身体中の血管を駆け巡り、心臓を破裂させ、血を吐きながらゆるゆると死んでいく。 そんな光景が目に浮かんだ。 ほら、と両手を広げる。 抱きしめて、愛してると囁いて、キスをして。 ほら、と手を伸ばす。 じゃないとこの悪夢が終わらないんだ。 いつまでたっても夢から抜け出せないのだ。 動かない彼に焦れる。 「ねえ、シズちゃん。俺を殺したんでしょう?」 じっとりと睨め付けられて、少し、血の気が引いた。 まさか、まさかこの後に及んで嫌だなんて言うんじゃないだろうなと、胸倉つかんで叫びだしたい衝動に駆られる。 「シズちゃん? どうしたの、シズちゃん。シズちゃんシズちゃんシズちゃんってば! 殺すんでしょう? 俺を殺すんでしょう? 早く死なよ。早く、早く――――っ」 殺して、と縋った。 とうとう縋ってしまった。 もういいでしょう、と。 もう殺してくれてもいいでしょう。 もう許してくれてもいいでしょう。 開放してよ、もう死にたいんだよと、醜態を晒して縋る。 けれど彼は、縋った手を振り払って非情にもこう言った。 「断る。お前を愛すくらいなら、俺が死ぬ」 そう言って背を向けた。 待ってと叫んだ。 叫んだと、思った。 しかしその声は自分にすら聞こえなかった。 朝日が眩しいと思ったら、どうやら夕日だったらしい。 太陽が落ちていくのぼんやりと見つめながらそんなどうでもいいことを知った。 白いベッド、大きめの窓、見知った部屋、隣に佇む点滴台、その管が自分の腕に繋がっているのは確かめずともわかる。 ぽたり、と点滴が落ちる。 その様子を眺めるにも飽きてしまうくらいに時間がたった。 目が覚めた当初は汗で服が張り付いて気持ち悪いなと思っていたが、今は気化熱で少し寒い。 寒いと思うのだから今度こそ夢ではなく現実だろうかと考えてみるが、夢の中でも痛みはあったのだ。 あまり当てにはならない。 視線を天井に移す。 特に染みなども見当たらない、ただの白い天井だ。このままここに何日間も閉じ込められたら、きっと染みが現れて、それで、もしかすると静雄の形にでもなるのかもしれない。 人が狂うのは驚くほど簡単だ。 そのまま視線をこの部屋の入り口に移し、それからやはり面白みがなかったので窓に戻した。 ベッドの上から見える風景はビルから空に限られていて、こちらもこちらでそう面白いものではないのだけれど。 どうせなら人を見下ろしたいなと思うが、身体が思うように動かなかった。 それに驚くほど気力がなかった。 起き上がろうという気力どころか、喉が渇いたとドアの向こうの気配に声をかける気力すら見当たらない。 夢のせいだ――まあこれも夢かもしれないのだけれど。 しかし逆に言えば、夢か現かわからないにしても、現状があるという一点から導き出せる結論がある。 そう、生きているということだ。 生きていれば夢を見る。 夢を見るのならば生きている。 いや、死というものが延々と夢を見続ける状態ではない、という保障は今のところないからそうも言い切れないのだろうか。 死んだあとのことなど死んでみないとわからないとは言うが、死んでもよくわからなかったらどうしたらいいのだろう。 不意に不安になる。 では、試しに現在折原臨也は死んでいると仮定してみよう。 見覚えのある部屋で、点滴なんか刺されて、ベッドに寝かされて、死んでいる。 身体はいまいち動きが悪く、テンションは落ち切ったまま浮上の兆しすらない。 憂鬱だ。 それこそ安っぽい映画にでてくるゾンビみたいな顔色をしている自信がある。 やっぱり死ぬって気持ちのいいものじゃないなと思ってため息をついた。 「天国ってもっと楽しいとこだと思ったんだけどなあ」 「まず自分が天国に行けると思ってるところで厚顔不遜だよね」 おや、声は出ないかと思ったら掠れていて聞き取りにくいものの、意外と出るには出るものだと感心し、ついでに天国の質素さについて言及しようとしていたのだが、その前に部屋のドアが開いて、よく知った声に邪魔をされてしまった――まあそもそも、ドアが開く気配がしたからしゃべってみる気になったのだけれど。 それもそうだと頷いて、身を起そうとすると、とくんと心臓の音がした。 なんだろう。 気持ちの悪い違和感。 「おっと、まだ無理はしない方がいい。身体、動かないだろう? 君が一体どれくらいの間、惰眠を貪っていたか知りたいかい?」 白衣に眼鏡の童顔。 闇医者という肩書と同様に怪しい組み合わせだ。 更にその怪しさに拍車をかけたいのだかなんなのか知らないが、へらへらと絞まりのない、これまた胡散臭い顔で笑う。 胡散臭いのは父親譲りなのだろうが、こんなのが自分の唯一の友人だと思うと些か残念に思える。 答えを促すために口を開きかけたところでまた、とくんとくんと心臓の音がした。 なんだろうこれは。 すごく、嫌な感じがする。 「しんら」 「うん?」 情緒不安定なのかもしれない。 名前を呼んだだけなのに、頭の天辺から足の裏まで不安が走って、まるで冷水を浴びせられたかのように急激に体温が下がった気がした。 膝が震える。 なんだこれ。 なんだこれ。 なんだこれ。 なんだこれ。 とくんとくんとく、とくとく、とくとくとくと心臓が変なリズムを刻む。 「しん、ら」 掠れた声が強張って、さらに聞き取りにくくなった。 「新羅」 声が絶望に染まっていくのがわかった。 頭より先に異変の原因を身体が理解したのだろう。 頭は理解を拒絶した。 「俺は、生きて……る?」 まるで迷子の子供のような頼りない声。 自分の手を持ち上げてみる。 すごく重かった。 そのくせ、前回見た時よりも一回り細く不健康になったように見える。それでも血が通っていた。 皮膚の下で蟲がはいずり回っているようなこともなく。 ぼたぼたと腐った肉が落ちることもなく。 なのに、身体の中に得たいの知れない化物がいる。 身体の中の化物、そんな現実感のない字面が何故かリアリティーをもってそこにあった。 やっぱりこれも夢なんだろうか。 悪夢続きで辟易していたけれど、これもまたひどい悪夢だ。 はは、と笑う声さえ引きつった。 違う。 夢じゃない。 ここが現実だと、もう悪夢は終わったんだと証拠もないのに確信し、それを自分で必死に否定する。 嘘だ。 こんなのが現実のはずがない。 これは悪夢だ。 最悪の悪夢だ。 こんなのが現実なんて、だって救われないじゃないか、と。 「うん。おはよう、臨也」 そんな臨也に友人は死の宣告のような絶望的な答えを一切の躊躇いなく突き付けてきた。 否、死の宣告だったらむしろ良かったのに。 もしかして地獄とはここのことかと嘆けば、セルティのいる場所が地獄のはずないだろと的外れな答えが返ってきた。 眠りにつく直前の記憶がフラッシュバックする。 頭の中で銃声が響く。 そうだ、鉛の弾に貫かれて、血を噴き出して、地に伏して、それで、死んだはずなのに。 すごく幸せな気持ちになって、それで全て終わったはずなのに。 なんで――――。 乾いていたはずの肌にじわりと汗が滲みだす。 呼吸が乱れる。 心臓の音が更に大きくなった。 そうだ、この心臓は止まったはずだ。 なのに何故、動いている? 「なん、で……」 ――俺は生きている? 「なんで!」 興奮に撥ね起きた身体を新羅がベッドに押し戻した。 「駄目だよ、安静にしてないと」 安静にしてないと何だと言うのだ。 死ぬのか。 なら暴れてやる。 「死なないよ」 死なせてなんてあげないよ、と聞こえた気がする。 「ただ苦しい時間を長引かせるだけだよ」 ふざけるなと怒鳴ろうとして、喉がつまった。 げほげほと咳き込み、丸めた背中を新羅がさする。 悔しいのか悲しいのか恐ろしいのか何なのか、自分でもよくわからないくらい負の感情だけがぐちゃぐちゃに入り混じり、生理的なものなのか感情的なものなのかもわからない涙が流れた。 次から次へと、止まることなく。 どくんどくんと心臓の音がする。 その音は、夢に落ちる前の音とはどこか違った。 今にも消えそうな、あの不安定な音ではなかった。 もっと力強く、命を感じる音だった。 「なんで…………、なんで……」 うまく言葉にならない。 喉はからからで、絞っても何もでないぐらい、それこそ干物にでもなったような気でいたのに、ぼろぼろと涙が零れた。 「なんで生きてるんだ」 違う。 聞きたいのはそこじゃなくて。 「誰を、殺した?」 この心臓は誰のだ。 使用期限の迫っていた自分のものではありえない音がする。 この心臓は誰を殺して持ってきた。 闇医者が静かに答えた。 「六十億もいる人間の誰かだよ。名前が知りたいの? でも君、知らないと思うよ」 さらりと言ってのける彼は、腐っても医者ではなかったか。 命を救う仕事だと豪語しておきながら、まるで人の命を塵芥のように軽んじる。 「誰が、殺した!」 喚く――怖かったのだ。 答えを聞くのが何よりも怖くて、喚かずにはいられなかった。なのに知らずにもいられなかった。 臨也のただ一人の友人が答えた。 「僕と、君と、静雄、かな」 ああ―――――――――。 ああ、なんてこと。 なんてことだろう。 あの化物が、あの臆病で傷つきやすい、可哀想な化物が、こんな下らないことのために、彼自身が最も恐れていたことに手を染めたのか。 あの愛おしい化物の、最初で最後の一人になるのは俺だったはずなのに。 俺は、最高に劇的な最期を迎えたはずだったのに。 満たされて死んだはずだったのに。 そして彼の神になるはずだったのに。 なのに。 なんで、俺は生きているのだろう。 夢の中で彼の言った言葉が蘇った。 「お前を愛すくらいなら、俺が死ぬ」 そうだった。 夢の中ですら死ねなかったのだ。 夢はすべて悪夢だ。 現実だけが優しいわけもない。 視界の端でキラキラと何かが夕日を反射した。 絶望の色は思ったよりも綺麗だった。 でも綺麗なものなんて、何一つ欲しくはなかった。 |