アイとは何か。







 いつものように、世界で最も見たくない顔と永遠におさらばすべく、暴言を吐きながら追い掛けて追い掛けて、たまに自動販売機を投げたりして、そして追い掛けて、その後ろ姿だけで最高にうざったい背中が路地を曲がり、よし追い詰めたとその先の袋小路を冷静に脳裏に思い浮かべながら笑みをはいて後に続く。
 がしかし、そこにターゲットの姿はなかった。


 どこに逃げやがったあの野郎。

 サングラスを外してぐるりと見渡す静雄の、それは頭の上から降ってきた。



「ねえシズちゃん。アイって何か、わかるかい?」



 突き当たりの建物の、屋上のフェンスの向こう。
 闇に溶け込む黒い影。

 いつの間に上ったのか。
 追い掛けようにも、壁を登るには高すぎる。あまりいい足場もない。
 かといってビルの中から昇るとなると、たどり着いた時には影も形もないだろう。

 悔しかったら捕まえてごらんと高笑いしそうな余裕かましたその姿に歯軋りをする。

 確かに捕まえるのは酷く骨が折れそうだ。


 だが、勘違いしてもらっては困る。
 目的は捕まえることではない。

 自動販売機を投げつければフェンスごとあの男を潰せるだろうか。




「てめえにだきゃ持ちえないもんだ。永遠にな! くだらないこと聞いてんじゃねえ!」



 とりあえず直接本人にダメージは与えられないものの、腹立ち紛れにビルの壁を蹴った。
 ひびが入ってビルが揺れ、臨也が嫌そうな顔をする。
 明日の朝にでも出勤してきたビルの従業員は、一夜でできた異様な局所地震の傷跡を見て何を思うだろうか。池袋ではよくあることだ、運が悪かった、むしろ人間が巻き込まれなくてよかったとさっさと諦めをつけるのが一番だろうが、おそらくそうもいくまい。




「違うよシズちゃん。誰が愛の話なんかしてるのさ。自分を愛せないから他人を愛せない、他人を愛せないから他人から愛されない、愛とは無縁の君に、愛にあふれたこの俺がそんな質問するはずないだろ。意味がない。シズちゃん俺はね、アイについてきいてるんだよ。わかるか? アイだよi」


 臨也はわけのわからないことをしたり顔で語る。
 とことん面倒な奴だ。
 前からおかしな奴だったが、とうとう自慢の頭も使えなくなったらしい。
 しかもハタ迷惑な方向に。



「は? 何言ってんだ手前。とうとう壊れたか」


 心の底から潰したくなった。まあ、それもまたいつものことだが。



「自分の理解力のなさを棚に上げて人の気違い呼ばわりはいただけないな。全く嘆かわしいよ。しかしいつだって天才は凡人に理解されない。まあ俺は天才ではないけど、凡人に天才が理解できないように、シズちゃんみたいな馬鹿には一般レベルは持ち合わせてる俺が理解できなくてもなんら不思議なことじゃないだろうからね。ああいやだ、なんで俺、こいつと同じ高校だったんだろう。近いからで選ぶんじゃなかったなあ。こんな馬鹿と同レベルと思われるなんて屈辱的にも程がある。俺の人生の汚点って妹を除くと、ほぼシズちゃん絡みなんだから嫌になるよね」
「それはこっちのセリフだクソノミ蟲」


 臨也がいなければ少しはまともな生活が、少なくともあんな高校生活にはならなかっただろう。
 彼女ができたり、なんていう夢まではさすがに見ないにしても、喧嘩の数はぐっと減ったはずだ。
 それこそトラックに轢かれたり屋上から落ちたりすることはなかったに違いない――それで何故生きているという疑問は今サラダ。今更過ぎてもはやだれも尋ねない。たとえ尋ねたところで答えはきまってしまっている。誰もが口をそろえて言うだろう。平和島静雄だからだ。ほら、何の参考にもなりやしない。


「佐々木先生も泣いてるよ」
「あ?」


 唐突に出てきた名前に眉をあげる。
 誰だと思いかけて、だが高校の話だったおかげですぐに思い出した。
 来神の数学の教師だ。
 所領の男性教諭で、とにかく暗算が速かった。ゆっくりとしたしゃべり方のせいかひどく眠気をさそったが、基本、温厚で面倒見が良く、逆にいえば若干しつこかった。いや、ありがたいことだ。何度静雄が追試になろうが根気よく付き合ってくれたし、見捨てずにわかるまで教えてくれた。


 しかし哀しいかな。
 高校の数学の知識で日常生活に役立つことはほとんどない。
 重要なのは数学より算数だ。
 足し算、引き算、掛け算、割り算。
 それさえ出来ればどうにかなる――それが出来ないと少し辛い。


 佐々木先生、お元気だろうか。
 もう退官されただろうか。
 それとも未だ来良で教鞭をふるい、生徒の大半を眠りの世界にいざなっているのだろうか。



「佐々木先生に何の関係があるんだ」
「関係? 何言ってんのさ。大有りだよ。というかそんな台詞が出てきたってことは、佐々木先生の授業は何の身にもなってないってことか。情けないを通り越してもったいないよ。主に授業料が」


 臨也は余裕を見せた表情でフェンスにもたれかかり、静雄を見下ろしながら続ける。


「教えてくれたでしょー? アイの定義」
「だから」


 何の話だ。
 本格的に話が見えない。


「アイは二乗すると-1になるって」
「…………ってそりゃ i じゃねーか!」
「だからさっきから i だって言ってるじゃない。聞きなよ人の話」
「そんな言い方でわかるか!」
「頭の回転の悪さを人のせいにしないでくれる」


 肩をすくめるわざとらしい仕種に、何か投げるものはないかとまわりを視たが、路地裏のくせにやけに綺麗に片付いてしまっている。
 あるのはせいぜいポリバケツぐらいか。



「で、俺、思ったんだけど。愛も i も同じようなものなんじゃないかって」
「もう死ねよお前」



「愛も i も足して引いて掛けて割ってかたちを変えていくんだ。 i + i は2i。これが基本。二人の i 、二つの愛。他の数字や記号じゃ絶対に増えない、減らない。愛は独立してるんだよ。例えば√3、これを i に足すとどうなるか。√3+i だ。i のかたちは揺らがない。歪まない。i - i は0。どちらかが愛せなくなったところでそれは消滅に向かて行く。繰り返すが、基本はね。一方的な i なんてものもある。これはただの孤立した i 。足し算も引き算もない。だから増えない減らない消えない変わらない。さっき i はかたちを変えないとは言ったけど、そもそも i とは存在しないものだ。二乗すると-1になるという定義の中から生まれた形のないものだ。だが人は愛に形を求める。例えば恋人だったり、結婚だったり、指輪だったり、家庭だったり。なんでもいいけど、目に見える形、名前を求める。形、そう、それはつまり自分の価値観に無理やりにでも収めてしまうことだ。割り算だね。自分の i で他人の i を測る。分母は自分の i 。分子は相手の i 。するととても現実的なものになる。i ÷ i は、1だ。夫、子供、彼氏彼女、友人。もうそれは i じゃない。名前という型にはまってしまってる。ただの数字だ。だけど仕方ないね。i は不安定なんだ。見えない触れない。そもそも、ない。ないとはいっても0とも違う。虚数の虚はうつろなもの。頭の中だけの数。実態がない。決してつかむことのできないもの。例え自分でさえね。だから1を求めるのはとても自然なことだと思うね、安定は安心。安心は幸福。あえて逃げとは言わないでおこう。貫くにはあまりに恐ろしいものさ i ってね」



 長たらしい話をようやくそこで一度切って、臨也はふっと笑って見せた。


「そう思わない?」
「思わねえ」


 静雄は間髪入れずに否定した。
 実際変態の妄想としか思えなかった。
 何がiだ。
 何が愛だ。
 気持ち悪い。
 ぐだぐだぐだぐだと言葉ばかり並べたてやがって。
 愛は愛だ。
 iはiだ。
 それ以上でも以下でもない。
 それでいいじゃないか。
 何が不満なのか。
 何が不安なのか。



「だいたいよお、掛け算がねえじゃねえか」

 二乗するとマイナスになる。
 一番重要な、定義の掛け算が。



「掛け算! ああそう、そうとも、それが本題だ」
「ああ? 前置きが長すぎだ。もう十分しゃべったろーが。そろそろ黙れよ臨也君よお」
「はは。これだから話の聞けない男は嫌だ。まああとちょっとなんだから話のオチくらい聞いていきなよ」


 やはりポリバケツだ。
 ポリバケツで妥協しよう。
 静雄の力をもってしても大して衝撃はなさそうだが、フェンスにあたって砕ければそれなりにダメージはあたえられそうだ。


「相容れない愛はぶつかって、互いを消費し i は消滅して-1になる。マイナス1、非生産的な現実だ。いや、何も生み出さないならまだいいか。だからそう、-1は破壊というべきかな。壊し、奪い、貶める」


 俺と君との関係だ。
 と、示されたはいいが、それが何の意味を持つのかがわからない。
 だいたいぶつかってるのは愛じゃなくて嫌悪だ。何を勘違いしてるのか。
 妄想もここまでくるといっそ憐れだ。



「だから、んだってんだよ」
「君が誰も愛せないのは、君の小さな愛が全て俺に向かってるせいじゃないかと思ったわけだよ。俺の溢れる愛は一角が君に侵略されようと大した問題じゃない。とてつもなく不愉快だけど、まあそれで人への愛が薄れることはない」


 可哀相に。
 笑いながら同情された。
 いや、これは同情なのだろうか。


「つーことはよー、手前を殺せば丸く収まるってことだな。死ね」

 ポリバケツを引き寄せながら尋ねた。


「ああもう俺ってばほんと愛されてるな」

 笑いながらも臨也の足が一歩下がる。



「は? 頭沸いてんじゃねえか」
「なんでシズちゃんはそこで、っ」


 ガゥンっと音がして、臨也の煩い能書きが止んだ。
 代わりに息をのんだところにプラスチックの破片が飛び散るが、それは臨也の頬に一筋の赤い線を描いただけで、やはり大したダメージはない。
 はっ、とため息とも笑い声ともつかない息を吐き出すと、臨也はコートを翻し背を向けた。


「可哀相に。本当に可哀相に。君は生きてる限り俺に捕われ消費され続けるんだ」


 そうして呪いの言葉をはいて、臨也は消えた。
 また殺せなかった。


 愛じゃない。
 これは決して愛ではないが、けれど、あれを殺すまで、あれが消えるまで、この思いが臨也以外に向くことはないのだろう。

 ああ、忌ま忌ましい。