ゼロになるからだ




 最近買った高性能な炊飯ジャーで炊いたほかほかのご飯に 優秀なアシスタントが作って帰ったカレーをかけて
 ついでに簡単なサラダとスープをつけて
 少し遅めの臨也の夕食は 意外に時間がかかった

 何せ仕事は山積みで
 パソコンをながめ メールに返信し
 ついでにチャットで顔なじみに親切な助言なんかをしてやりながら片手間に食事をするのだから それは時間もかかる
 器用だという前に 行儀が悪いと言われそうなものだが
 消化に悪そうね腹痛で苦しめばいいのに と心配してくれる助手もいなければ張合いもなく
 黙って一人きりで食べる夕食は どうしてもおざなりになる
 そもそも大して食に対し執着もなければ 食べずに終わってしまう日もあるくらいで
 それに比べれば 今日は随分まともな食事だったとさえ言える

 冷めてもそこそこおいしいカレーの最後の一口を放り込んで
 臨也は食後の一杯をいれる
 食事は適当でも食後の一杯だけは欠かしたことがない
 今日は何にしようか
 紅茶にしようかそれともウーロン茶にしようか
 そうやって考えるのもまた楽しい
 そういえば友人の新羅から押し付けられた緑茶があったはずだ
 今日は緑茶でもいい
 新羅からというのが若干気になるものの だからといって賞味期限までほうっておくのはもったいない
 何か起きるのだとしたらなおのこと
 そうだな今日は緑茶にしよう そう決めた

 緑茶を美味しく淹れるんは ほんの少し気を遣ってやればいい
 飲む分だけの熱すぎないお湯を急須にゆっくり注ぐ
 蒸らす時間は経験則
 頃合を見計らって
 温めておいた湯呑に 急須の最後の言って気までを丁寧に注ぎ切ってできあがり

 あやしいながらそこそこおいしいお茶で一服
 やはり飲み物は何をつくるにしても一手間かけて 手ずから淹れるに限る
 緑茶しかり紅茶しかりコーヒーしかり
 あの波江でさえも あなたの淹れるお茶はまあまあ飲めるんだから嫌になるわなんて認めてくれたいぐらいだ
 彼女のそれはおそらく最大級の褒め言葉
 けれどここのところずっと
 そんなおいしいお茶を片手に
 何をするともなくただぼんやりと外を眺めてしまっている自分がいる
 さしあたってそういう仕種にふさわしく 溜息なんかをついてみる
 どこまでも深く息を吐き出して
 けれど溜息の本当の理由は実は臨也本人にもわかっていない

 目下には愛するべき人が溢れ
 悪意が溢れ 偽善が溢れ
 悦び哀しみ愛憎悪
 何かを決意し 何かに絶望し
 助けを求めたその手で誰かを傷つけ
 様々な表情を見せてくれるそれらは 決して臨也を飽きさせることなどない
 とてもいいことだ
 素晴らしい 日常
 否 非日常の連続
 日々変わりゆく全ての景色が 背合わせにあるスリルが
 退屈だとか物足りないとかそんな言葉とは無縁の世界を構築してくれる
 波乱万丈波瀾重 安居楽業
 満たされている 不満なんてない
 たとえ多少思い通りにならなくても それをこそ楽しめば問題ない
 楽しい楽しい毎日に
 感謝しこそすれ失望するなどあり得ない

 けれど最近はいつもこんなふうに おいしくお茶をいれて飲むたびに
 身体の芯のあたりから溜息が
 こっそりもれてくるのも本当だから困る
 お茶がおいしくはいればはいるほど
 お茶のおいしさではなだめきらない何かが自分の中にいるのがわかる
 深く長くついてしまうそのため息に 臨也は自分でもはっとする
 そうするとなんだか心がざわついて 湯呑を持つ指に思わず力をこめたりしてしまう
 すっきりしない
 気持ち悪い

 だから 覗きこんでいた湯呑の底の方に一本の茶柱を見つけた時は
 吉兆の意味とは裏腹の そのくるくるとした不安定な揺れにつられて
 臨也の心もかえって落ち着かなくなってしまった
 縁起がいいなんて どこの年寄りだ
 というかなんだこの茶葉安物か
 湯呑みの中に 臨也は毒づいた
 そのとたんに茶柱の先端が
 湯気の立つお茶の表面を突き破ってひとりでに立ちあがってきた
 立ちあがった茶柱は
 空気に触れるそばからみるみる金色の糸の塊となり
 臨也のほうにぐいぐいと迫ってくるではないか
 金の糸の下に人形のような顔
 あれ これってもしかして糸じゃなくて髪なんじゃ と思っているうちに
 続いて青と白の着物 
 腹から腰がという順で お茶の波をざばざば立てながら
 やがてそのものは全身を現した
 あまりに現実離れした光景なのに よくも取り乱したりしなかったわけは
 現実離れしすぎているせいで取り乱すことも忘れたせいか
 それとも現実離れした事態にはそろそろ慣れてしまっていたせいか
 あるいはちんけな幸運の兆しより 目の当たりにしちる突飛な現実のほうが
 この世の中にあっては余程頼みになる気がしたせいかもしれない

 よっこらしょと湯呑みの縁をまたぎ越えたそれは
 小さな湯呑みから出てきたくせに 細身ではあるが随分と背が高かった
 おそらく臨也よりも十五センチ程
 この身長差どこかで なんて嘯くのは白々しい
 まだふかふかと湯気を立たせたまま そのくせ濡れている形跡はなく
 臨也に向かってほほ笑むその端整な顔は
 状況のおかしさを差し引いても気持ちが悪いと思わざるをえないほど よく見知った顔だった
 しかしその顔はこんな表情はしない
 何より規格外であるにしても 茶から出てくるまでの非常識さまで持ち合わせているとはさすがに思えない
 目をそらすにそらせずその顔とむきあっていると ふいになんとも言えない悦びがこみ上げてきた
 成程素晴らしい
 これは素晴らしいことではないか
 首なしライダーに生首 子をなす妖刀
 世の中に不可思議なものはあふれてる
 ならば茶から鬼がでてくるなんていうのもありだろう
 それもあろうことか臨也の前に それの姿で現れるなんて思いきったことをしてくれたのだから
 その心意気をたたえ 盛大に迎え入れてやるのも悪くはない
 基本人外の化物は嫌いだが愛してやってもいいかもしれないと
 後から考えれば何故そんなことを考えたのかまるで不思議でならなかったが
 とにかくその時は 何の疑問を持たずにそう思った
 見てくれとは不似合いの やさしい声で鬼は言った
 あと七十日で世界は終わります