自販機が飛ぶ。
ゴミ箱が飛ぶ。
看板が飛んで、人も飛んだ。
相も変わらず化物は絶好調らしい。
これではまるで夫婦喧嘩で皿を投げられる夫のようだと、そんな馬鹿げたことを考えた自分をこそ嘲笑いながら走る。
逃げているわけじゃない。
ただ、走っているだけだ。
躾のなっていない馬鹿な犬は、動く物とみれば嬉々として追いかけてくるのだから――金色の毛にバーテン服を着せられた大型犬を想像してみれば、思った以上に愉快だった。
「シズちゃんってさ、犬に生まれてれば幸せだったかもね」
わざわざ振り向いて言ってやれば、バイクが飛んできた。
訂正。噛み癖のある犬なんか捨てられて彷徨った挙句保健所行きだ。
だいたい人のことはノミ蟲呼ばわりするくせに、犬程度で怒るなんて理不尽な。
そもそもノミ蟲なんて脊椎動物どころか原索動物ですらなく、節足動物じゃないか。
ああ、ノミ蟲以下の脳味噌しかもたないシズちゃんには原索動物の意味がわからないかもしれないけど。ちなみに原索動物というのは――。
「死にやがれノミ蟲!」
おっとまずい。
距離を縮められてしまった。
どうやら原索動物の解説をしてる暇はなさそうだ。
何故なら今日はここで捕まるわけにはいかないのだ。
そう、今日の舞台は『ここ』ではない。
夢を見た。
いつものように仕事して。
そろそろ一休憩入れようかと秘書の名を呼ぶ。
返事がない。
ああそういえば今日は休みだったか。
いや、そんな話あったかな。あった気がする、なかった気もする。けど、そんな日もあるだろうと、夢は夢らしくアバウトだった。
秘書がいなければ何も出来ないわけではないが、自分で淹れるコーヒーよりも人に淹れてもらったコーヒーを飲みたかったものだと若干残念に思ったのも事実。まあそうはいっても始まらない。
仕方がないな自分で淹れようと立ち上がったその瞬間、チャイムが鳴った。
ピンポーンと静かな部屋に無機質な高い音が響く。
おや、今日は誰とも約束はなかったはずなのだけれど。
なんだろう。
迷える子羊だろうか、それともアポなしの新規の客、あるいはまさかこちらに恨みを持つ者が、ナイフ片手に押し掛けてきたのだったらおもしろい。
さあ、予期せぬ来訪者はどんな顔をしているのだろう。
困った顔、泣きそうな顔、不安げな顔、怒った顔。招かれざる客、大いに歓迎しようじゃないか。
ああそう、コーヒーも二人分淹れなければ。
そんなことを考えて一気にかけあがったテンションに軽やかな足取りで、玄関に向かう――そう、この時点で夢だと気付くべきだった。
うちはオートロックだ。
客は玄関ではなくインターフォンで対応する。
なのにさすがは夢、何も疑問を持たずにドアを開けた。
けれどそこには期待したもの、それ自体がなく。
迷惑じゃないだろうか、あるいは断られないだろうかと緊張の見える顔も、お前のせいでと理不尽な言葉を並びたてる口も、不安に染まり、不安定に揺れる瞳も、何もなく。
そう、何も、なく。
黒い霧、いや煙だろうか。
ゆら、と一筋立ち上り、微かに景色を遮っていた。
おや、おかしいなと軽く首を傾げ、疑問の解消のためにその名を呼ぼうとしたが、そんな暇もなく顔への衝撃が言葉を奪った。
バシャ、と耳を打つ音がした。
よろめかない程度の弱い衝撃だったけれど。
何か生温い液体をぶっかけられたのだと理解するのに数秒。
え、と間抜けに口が模るが、声はでない。
視界の端でカタンと音をたてて木製のタライが転がった。
それはカラ、コロと転がり、廊下に赤い道を描いて。
漆黒を纏った死の使者が、首を抱く。
見覚えのあるその顔がにやりと笑った気がした。
フロイトではないので、夢が欲望の表れなどという説について真面目に考えたりはしない。
しかし以前に女の子たちが楽しそうに話していたものの中に、夢占いなんてものがあった。
花占い恋占い星占い動物占い夢占い。
いつの時代も少女は確実性も現実性もない不確かなものに一喜一憂する。
そんなモノに興味をもつ彼女たちに興味をもってちょっと調べたことがある。
それによると、例えば人を殺す夢はいい夢だそうだ。
なるほどシズちゃんを殺す夢なんか最高だろう。
いや、夢で殺したところで意味などないけど。
殺すならば、現実でなくては。
だから走る。走って走って誘う。
「こっちだよ、シズちゃん。どこ見てんの?」
今日の舞台へ。似合いの舞台へ。
「あたんないよ、ノーコン」
「ちょろちょろ動いてんじゃねーぞノミ蟲! 大人しく殺されろ」
理不尽な要求はナイフを投げて丁重にお断りしておこう。
壁を蹴り、看板を上り、ビルからビルに飛び移る。
彼のために身に付けた全てをもってして、走る。
彼は追いかけてくる。
どこまでも。
地の果てまでも。
なんていっそなにかのラブロマンスみたいじゃないか。
だから走って、走って走って走ってそして――。
路地裏で捕まった。
「捕まえたぜ、臨也君よ! もう逃がさねえ、今日こそ捻り潰してやる」
腕を取られてしまったので、足を止める。
無様に取り乱したりはしない。
少し力を入れられたら、あの捻じ切られた標識よりずっとずっと脆い骨は砕けてしまうだろうから、怖くないといったら嘘だけど、腕の一本ぐらいもう必要もない。
だけど。
「愛してる人間になら指の一本ぐらいだったらあげてもいいけど、シズちゃんには爪先だってごめんだな。ところで最後に一言いいかい?」
「俺が手前の言葉を聞いてやると思うか?」
ぎりっと歯を噛みしめながら一心に睨みつける顔は凶悪だが、そんな一途なところは実は嫌いじゃないの、といったらどれくらい嫌そうな顔をしてくれるだろう。
想像してけらけら笑っていると、胸倉を引き掴まれた。そのまま額をがつんとぶつけられ、ぐわんと世界が歪んだ。
危ない、本気で意識が飛ぶかと思った。
石頭め額が熱い。
つうっと温かな液体が額から瞼へ伝っていくのを感じ、唇端をあげる。
今日はサングラスに隠されていない鳶色の瞳が眼前にある。
射殺されそうな眼光に、胸を貫かれる妄想をした。
死神の夢は、救世主の暗示。
「君って本当に面倒くさいね」
唯一と言えるだろう友人は、ため息とともにそう結論づけてくれた。
選ばれた言葉にやる気のなさを感じて酷いなと嘯く。
面倒くさいでまとめるとは酷いじゃないか。
人の心はまさしく複雑怪奇で、そして何より折原臨也だとて人間の一人なのだから仕方ない。
むしろ悩み、葛藤し、胸を締めつけられるような思いを噛みしめ、もがいてのたうち回って、そうして出した答えなのだから、少しは慮っていただきたい。
何も応援しろとまでは言っていないのだから。
「臨也……」
医者なんていう仕事をしていながら――あくまで闇だが――結構ろくでなしな性格をしている友人が、ふいに真面目な声で言った。
「君が何を考えているか僕は知らないし、君ってば気持ち悪いからわかりたいとも思わないんだけど。一応数少ない友人だと思って言うよ。臨也、君は間違ってる」
何も知らない、知りたくもないと言った上での完全否定。
「だいたいさあ、自分のことだけ考えるのはやめてくれないかな。いや、君はそれでいいのかもしれないけどさあ、君が利己的になればなるほど君以外の全員が嫌な思いをするわけだよ。僕も含めて」
友達がいのない冷たい言葉。
「君に残された時間は少ないんだ。そんなこと、俺から言わなくても自分でわかってるだろ? 君はもっと時間を大切に使うべきだよ」
躊躇わない死の宣告。
「そうだよ。少ないんだ。わかるよ自分の身体だからね。もう本当に時間がない。そう遠くない未来、そうだな、明日だったりしてね」
「だったら!」
声を荒げる友人が何を思っているのか知らないが、容易に予想がつくのが不愉快だった。
そういう思いやりみたいなのは似合わないじゃないか。欲しくもない。
「死んだら終わりだ。言い逃げならぬ死に逃げする君はいいかもしれないけどね、生きてる僕たちにはまだまだ長い未来があるんだよ。消えるなら綺麗に消えてくれ。醜い傷跡を残して去る、なんてされたら迷惑なのはこっちなんだ」
自分が人よりもほんの少しだけ早く、この碌でもないながら素晴らしい世界に別れをつげなければならないのだということは、物心ついた時から自覚していた。
それが普通の状態であったから、今さら絶望が襲ってくることはない。
もし死後の世界なんてものがなくて、自分がなくなってしまう、無になると思えば当然怖いし嫌だと心の底から思うけれど、それで悲観して鬱になって無為な時間をただ過ごすのだけはごめんだった。
今生きている意味さえなくなってしまう。
だから生きているうちに出来ることをするのだ。
準備を万端にして、最後の最後まで、シズちゃんの言うあの嫌な笑い方とやらで笑っていてやれるように。
「俺が君の傷になるのか、それはすごい難しそうだ」
「…………僕はセルティ以外の何者にも傷つけられたりしないよ」
小さな声でため息をつくような反論。
その声が揺れてることからは目を反らす。
「でも絶対、泣いてやるから。君の葬式で、折原君は決していい人じゃなかったけど、ていうかむしろ反吐が出るような人間だったけど、死んだ方がいいって皆に思われてたけど、でも僕にとっては友達だったのにって泣いてやって、十年後に静雄とそういえばあんな人もいたね、最近は平和だねってお茶でも飲むんだ」
本当に嫌な奴だ。
臨也がなりたいのはそんな綺麗な思いでとやらではないのだとわかった上でそんあことを言う。もちろんわかったうえで、わかっているからこそ、だろうということも、わかっている。
お互いわかりきってしまっているのだから、これ以上の言葉は無意味だ。
「なんでもいいから薬ちょうだいよ」
「人の話は最後まで聞きなよ」
無為な言葉を遮るように言えばぴしゃりと撥ねのけられてしまった。
この後はなんだろう、二十年後に二人で墓参りでもしてくれるのだろうか。
それとも化物と人間の子供ができたと報告してくれるのだろうか。
どちらもぞっとしない。
聞く気が失せたので肩をすくめて続けた。
「あと一回走れればそれでいいから」
忘れ去られたくない、なんて。
ずっと残っていたい、なんて。
きっとそれは恐ろしく愚かしい考えなんだろう。
非情で卑怯で、救いようがなく浅はかな。
でも、誰に忘れられても、平和島静雄、青春を奪い取り、人生をぶち壊してくれた化物に忘れられるなんて耐えられない。
同じだけ苦しんで、同じだけ思ってくれないと嫌だ。
ずっとずっと縛りつけられてくれないと駄目だ。
ただの美しい過去にされるなんて、あってはならないことなのだ。
だから考えた。
折原臨也という存在が彼の中に確かに在り続ける方法を。
ありきたりな言葉で言えば、彼の中で俺が生き続ける方法を。
折原臨也を平和島静雄に刻む方法を。
恋と紛うような熱心さで、彼のことだけを考え続けた。
あるいはこれは本当に恋なのかもしれない。
もしかして俺は彼を愛しているのかもしれない。なるほどそう考えるといくつか不可解な事にも説明がつく。
例えば誰に言われずともわかってる、この異常な執着。
しかし得てして愛とは異常なものだ。
さあ可哀想な化物、君を愛してあげよう。
俺なりの愛し方で。骨の髄まで。
胸倉を掴まれたまま、顔が接近していることをいいことに、せっかくだから唇を寄せた。
軽く触れる。
それだけ。
キスとは言わない、ただの接触だ。
これに限っては愛情ではない、嫌がらせだ。
案の定勢いよく引きはがされて笑った。
この程度で焦るなんてこれだから童貞は可愛いじゃないか。
「てめっ、何しやがる」
何って餞別だ。
これからこの世を離れる自分への手向けだ。
ふっと笑ってから、ふいに驚いたような焦ったような、そんな表情をつくった。
突然の緊張感にシズちゃんは訝しげに眉を寄せた。
「は? 何……」
ああ、馬鹿な犬みたいなその顔に噛みついて、耳朶をしゃぶり囁いてやりたい。
これが最後の舞台だよ、と。
出演者は俺と君。
それから一発の銃弾と。
肩の向こうで鈍く光る銃口。
素晴らしい。
上々だ。
全てが計画通りに運んでいる。
いつだって俺の計画を狂わせてくれた平和島静雄を相手に、ここまで上手くいったことがこれまであっただろうか。
こうも上手くいきすぎるとむしろ若干不安になってきてしまうなんて、俺も随分と毒されてしまったものだ。
「やば、シズちゃん伏せて!」
我ながら白々しいと思いながらも、渾身の演技で叫びながら蹴り倒した。
化物が簡単にぐらりと傾いたのは、何があったと後ろを確認しようと振り向きかけたところに不意打ちだったからだろう。
パン、と思った以上に軽い音が響いたと思った瞬間には、痛みよりも先に身体が地面を見失い、冷たいアスファルトにたたきつけられた。
熱い、と思った。
「なっ、臨也!」
走馬灯はいらない。
代わりといっちゃなんだけど、最期に君の今の顔を見せて。
できれば絶望に歪んだ顔が見てみたいのだけれど。
まあ無理だろう。
何せ君は俺が大嫌いなのだから。
なら君を染めるのは何だろう。
驚愕か、憤怒か、悲哀か、それとも悦楽なのか。
早く、早く君が俺にくれる最期のソレをちょうだい。
そしたら笑いながら呪いの言葉を吐いてやるから。
「いざ……や……?」
「あは、シズちゃ…………なんて……お、して……の」
なのに、残念ながら俺の役立たずの声帯は、この肝心な時だというのに震えるだけで、まともな音にならなかった。
ほら見ていろよ化物。お前はもう俺のものだ。
君は忘れない。俺を絶対に忘れない。
君は自分を庇って死んだ人間を忘れられない。
君が初めて殺した人間を、忘れられるわけがない。
さようなら。愛しているよ。俺の―――――――――――――。
そんな、呪いの言葉を吐いてやるつもりだったのに、何で―ー――。
なんて顔してるの、シズちゃん。
何で君はそうやって悉く俺の計画を壊していってしまうの。
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