太陽のオちた日



 金色の髪が太陽の光を反射して。


 ああなんて綺麗なんだろう、あれが欲しい。
 子供の気まぐれのように唐突に、けれど子供だからこそ純粋に何より強くそう思って、手を伸ばしたしたのが始まりだった。

 望まぬ力に振り回されて、そんな自分を愛することができなくて、けれど決して歪むことなくまっすぐ前を見つめる鳶色の瞳に心奪われた。
 彼女は誰より強く、美しく。
 肉体は傷つくことを知らず、反対に心は傷ついているのに、けれど決して屈することをしなかった。
 圧倒的な力と折れない強さに惹かれた。気付いた時には捕われていた。


 欲しいの、あれが欲しいの、貴女が欲しいのと、まるで腹の中で自分ではない何かを飼っているかのように、心がざわついた。
 欲しいと思ったら手に入れる。だって手を拱いているうちに横からかっさらわれたりしたら堪らないじゃない。
 だから迷わず手を伸ばした。



 彼女が白くて細くて羨ましいと称した頼りない手で彼女の頬を撫で、髪を絡め、顎をくいと上げてやって、戸惑いを見せた彼女に最高の笑顔を送る。
 そのままぐっと顔を近付けて、彼女が身じろぐがもう遅い。

 寄せた唇で彼女のそれを奪った。

 柔らかい。
 温かい。


 彼女の体温は私より少し高い。

 愛撫するような真似はしない。
 驚きで開いた唇が閉じる前に舌を捩込んだ。

 びくりと肩が震える。

 ああ、本当に可愛い。


 奥に引っ込んでしまった舌を搦め捕り、優しく歯列をなぞっていく。
 甘い。


「ん……、ふ」


 この程度で焦っちゃって。
 縋りかけた手をとり指を絡ませた。


「い……ざ」


 初な彼女は息継ぎの仕方もわからないらしい。
 苦しげな声に苦笑して、解放してやれば大きく肩で息をしている。


「な、何するんだ! おま、お前!」


 呼吸困難のせいか、それとも別の原因か、シズちゃんの目元は真っ赤に染まって、だから吠えてくる声さえ可愛いらしい。

 私はくすっと笑ってペロリと舌を出す。
 舌の上にもう半分程度に小さくなってしまった甘い飴をのせて。



「だあって飴ちょうだいって言ってるのにシズちゃん意地悪するんだもん」
「してないだろ! これが最後だからないって」
「うん、だからそれ、もらっちゃった」



 ありがと。喉痛かったんだよねと悪びれず言えば、シズちゃんは目を白黒させていた。

 ああもうなんでこんなに可愛いんだろう。
 こんな穴だらけの理論で何も言えなくなっちゃうなんて。
 なんて、なんて愛おしい。
 私の宝物。



 柔らかな髪に口づける。


 これは私のものだ。
 私だけのものだ。




 そう思ってた。
 そう信じてた。



 なのに、まさか彼女が裏切るなんて、思ってもみなかった。
 考えたことさえなかった。

 いや、恐ろしいことは考えないようにしてたのか。



























「………え?」



 私の幸せをぶち壊すその言葉を聞いた瞬間に、頭の中は真っ白になった。

 思わず零れた言葉に、そんなに驚くほど意外かよと頬をそめながらも恨めしげに睨みつけてられた。
 だが違うのだ。
 驚いた。
 確かに驚いたのだが、それは別に馬鹿にする意味なんか全く含んでいなくって。
 かといって純粋な驚きでもないそれは、絶望に似ていた。


 まるでシズちゃんの暴力みたいだとぼんやりと思った。
 予測不可能、回避不能。
 絶対的な力で地面にたたき付けられた時のよう。
 いや、それよりも鋭い。
 私は今、もしかして剣山にでも叩きつけられたんだろうかと、そんな妄想に走るくらいに痛かった。 
 言葉がこんなに痛いなんて。己が言葉を武器に数多くの人間を追い詰めてきたことなんかまるで棚にあげて驚いた。



「うそ……」



 自分はどういう顔をしているのだろうか。
 零れた言葉をどこか遠くに聞いた。


「嘘じゃねえよ」


 どこかむっとしたようなシズちゃんの声。
 違う。そうじゃない。
 彼女が嘘をつくなんて思っていない。
 そうじゃ、なくて。
 だって嘘じゃないと嫌だ。



 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌、いや。
 許せない認めない。
 彼女が男の欲望に汚される。
 そんなの嫌だ。そんなの駄目だ。
 だって彼女は私のなのに。


「こんな俺でもいいって言ってくれたんだ。だから」



 付き合うことにした。
 彼氏が出来た。
 恋人になった。


 言い方なんかどれだって変わりはしない。
 どれだって認められない。

 だってそれは、彼女が男の欲望に汚されるって意味だ。
 欲にまみれた男の手が、彼女の肌に触れる。
 ぞっとした。

 彼女が汚れる。
 私のシズちゃんが穢される。


 男の手が触ったところから真っ黒い何かが広がって、広がって、広がって。
 唇、髪、頬、鎖骨、胸、腹。
 足の爪の先まで真っ黒に塗り潰される。
 だけどきっと誰も気付かないのだ。
 私だけしか気付かない。


 綺麗な綺麗な私の太陽は、太陽だったものになりさがり。
 眩しかった金の髪はくすみ、透明だった瞳が淀む。

 そうして真っ黒な手は、私に触れて、私を汚す。






 嫌だ。




「その、すごくいい人なんだ」


 はにかむ彼女の笑顔が、歪んで、おぞましいものに見えた。


「や…………だ」
「え? 何か言ったか?」


 ほら見ろ、もう私の声は彼女に届きはしないのだ。

 不安定に揺れる視線に気付いた彼女が私に手を伸ばすけど、彼女の指が触れる瞬間に吐き気がするほどの寒気が走り、力一杯叩き落とした。


「いざ……や?」


 後ろにじりじり後退り、彼女から距離をとる。
 傷ついたような彼女の声も、あんなに好きだったのにどうしたんだろう、全く心を動かさない。


「嫌だ。触んないで」
「臨也!」
「やだ、ヤダヤダヤダヤダ! こっちにこないで! 近付かないでっ!」


 私の大切な宝物だったのに。
 どうしてこうなってしまったんだろう。
 大切に、大切にしてたのに。
 なんで私は隠しておかなかったのだろう。


 悪いのは、守りきれなかった私かもしれない。
 けれど、宝物は自らの意思で私のもとを離れてしまった。



 ならもういらない。



「シズちゃんなんて、大嫌い」


 すごく悲しいことだけど、不思議と涙は出なかった。
 仕込みナイフを彼女の鼻先に突き付け言い放つ。



「死んじゃえばいいのに」
「あ?」


 彼女はよくも悪くも直情的だ。
 明確な悪意にかっと頬が染め上がった。
 振り上げられた拳。大振りのそれを懐に入り込んで避け、ナイフで彼女の胸元を切り付ける。
 けれどこんなもので彼女は死にはしないし、きっと跡すら残らない。



 大事な大事な私のシズちゃん。
 汚されて、壊れてしまった宝物。
 人の手で愛撫されるくらいなら、私がこの手で粉々に砕いてあげる。



「この、化物」



 宣戦布告。
 私はもう彼女を愛さない。


























 じゃあね、シズちゃん。ばいばーい。


 投げつけた自動販売機を、腹が立つほど軽やかな足取りで避けてみせて――危なかったとすれすれで避けるのはきっとわざとだ――臨也はあの嘘臭い笑顔と共に人混みに消えた。

 厄災は撒き散らすあの忌ま忌ましい蟲を今日も仕留めることが出来なかった。

 舌打ちはこれで何度目だろう。
 3桁はゆうにいっているに違いない。
 だってもう8年になる。
 8年の付き合いと言えばいっそなんだか仲が良いようにすら聞こえるが、実際は腐れ縁と称するのも悍ましい。
 8年――殺しきれず、殺されきれず。


 早く死ねばいいのにと臨也がぼやく。
 手前が死ねば全部解決するだろと言えば、馬鹿じゃないのと鼻で笑われた。

 本当に一挙手一投足が人の気を逆なでするのだから、もはやこれは特技と言えるのかもしれない。



「終わったか?」



 胸ポケットから取り出したサングラスをかけ直したところでトムさんに肩を叩かれた。


「ええまあ」

 仕留められなかった。
 多少不完全燃焼だが、仕事中だ。
 これ以上迷惑をかけるべきではない――というかそもそも仕事中に私事を持ち込むべきではないとわかってはいるのだが、どうしても挑発に反応してしまう未熟な己を情けなく思う。



「逃がしちまいましたけど」


 だからきっとまた迷惑をかけることになる。
 すいませんと小さく謝るが、出来た先輩は軽く肩を竦めてみせた。


「まったくあいつはなんでああなんだろうなあ。どこでねじまがったんだ? やっぱ生まれつきか?そういやいつからの付き合いなんだ?」
「高校からです」
「やっぱその頃にはもうああだったんだろ?」



 お前も苦労するなと頭をくしゃりと撫でられて、いや、と思い出す。

 いや、そうだ。
 そうじゃなかった。
 

 出会ったのは高校で、その時既にあれは見事なまでに歪んでいたけれど、関係性は違った。
 出会って一年程だろうか。
 今では自分でも夢だったんじゃないかと思う。
 シズちゃんと呼ばれても、苛立たなかった時期があったのだ。



「どうした静雄?」
 

 突然足を止めた静雄に、トムが疑問符を浮かべ振り向いた。


「あ、や……、いえ、今ふと思い出したんですが、あいつ……。昔はあんなんじゃなかったんです」
「そうなのか?」


 そうだ。
 シズちゃんシズちゃんと馬鹿みたいに繰り返しながら、気まぐれな猫のようにまわりをふらふらしていて。
 たまに遠くに行ってみたり、たまに異常な程近付いてみたり。
 その頃からやはりどうしようもなく性質が悪かったのに代わりはないが、シズちゃんは馬鹿だねという一言に悪意がなかった。



 シズちゃんは馬鹿だね、うるせえよ、赤点何個とってんの仕方ないなあ教えてあげようか三枚で、馬鹿か、あははごめんねシズちゃんはお金もないもんねえじゃあいいよパフェ奢ってくれたら追試の山かけたげる。
 パフェぐらいならと奢ってやった。おもしろいくらいに山があたって追試は受かった。今思えばテスト問題をどこからか不正に仕入れていたのではないかとも思うが、まあ時効だろうか。

 シズちゃんシズちゃん何してるのシズちゃんサボりは駄目だよ、手前だってサボってんじゃねーか、俺はいいんだよだって女の子の日だからね、何日続いてんだよ三週目とかあからさまに嘘じゃねえか、おやおやシズちゃんのくせによく覚えてたね、馬鹿にしてんのか、してないよ照れ隠しだよ、意味わかんねーよ、だってシズちゃんいないと面白くないんだもんなんて言えないじゃない恥ずかしくて、嘘つけ、あはは酷いな。



 思い返せば、これは、仲が良かったと言っていいのではないだろうか。
 常につるんでいるわけではなく、気まぐれに絡んでくるのを適当にあしらっていたと思っていたのだが。もしかして自分が思っていた以上に大きな存在だったのだろうか。
 だから、大嫌いと初めて言われたあの日、あんなにも――。


 いやまさか。
 まさかそんなわけない。
 あの日腹を立てたのはあの女の身勝手さに、理不尽さにこれ以上振り回されるのはごめんだと堪忍袋の尾が切れたからだ。
 それ以外にあるはずがない。



 でも、あの日臨也は何故いきなりあんなことを言い出したのだろう。
 なんでもない話をしていた。


 告白された。
 うれしかった。
 付き合うことにした。


 それこそ無駄に顔と外面の良い臨也にとっては、よくある、大しておもしろくもない話だっただろう。
 何が琴線に触れたのか。



 やだやだやだやだ。
 近付かないで触らないで。


 どこから取り出したのか、ナイフの切っ先が閃いた。



 嫌い嫌い嫌い大嫌い。
 シズちゃんなんて大っ嫌い。
 死ねばいいのに。


 本気の悪意をぶつけられて冷静でいられるほど大人ではなく――今だってそんな忍耐力はない。が、今なら少しは考えたかもしれない。何がトリガーになったのか。

 けれどあの頃は目の前の悪意と殺意が全てだった。



「お前らが仲良くしゃべってるってーのはなんだか想像できないな」
「俺もです」
「なんだそりゃ。あー、でもよ、仲が良い時期があったってこた、仲が悪くなった原因があったってこったろ? じゃあ」



 裏を返せば原因取り除けばまた仲良くやれるんじゃないか?


 なんて。
 それが出来れば今こうなっていない。だいたい仲良くしたいとも思わない。あいつは最悪だ。
 だが敬愛する先輩の言をむやみに否定もできず。
 小さく、そうですねと呟いた。