変な男に会った。 短くはない人生のうちで変な男にぶちあたるのはそう珍しいことではなかったが――例えば変態闇医者とか、例えば年がら年中、それこそ夏でも濡羽色のコートを手放さない情報屋とか――今回の“変”はとにかくあからさまだった。 男は仮面をかぶっていた。 それも狐の面だ。 これを変と言わず何を変と言うのか――ガスマスクとどちらの方が変かと問われれば迷う。 祭の夜でもないのに、しかも背の高さから子供には到底見えない大の男が、狐の面をつけて歩いている。警戒するなという方が無理だ。 男は軽い調子で声をかけてきた。 「平和島静雄。君は」 その時静雄は池袋に現れた臨也を取り逃がして苛立っていたところだった。 笑い声が未だ耳に響いているような気がして、自分が投げた自動販売機を蹴った。 既に自動販売機としての役割を失って鉄塊となっていたそれは、べこりと凹んで飛んで行き、壁にぶつかって大きな音をたてた。 そんな、通行人が須らく身をすくませるような轟音の中、男の声はまるで別次元から聞こえているかのようにはっきりと聞こえたのを覚えている。 「何だってそんなに折原臨也にこだわるんだ?」 この状態の静雄に声をかけてきた、その事実だけでも変人認定するのに十分だが、声をかけられるまでそこに人の気配なんてまるでなかったものだから、変人を通り越して人であるかを疑ってしまった。 思わず足を確かめてしまって舌打ちをする――足は判断基準にならない。セルティにだってしっかり足はある。幽霊には……会ったことがないからわからないが、足があってもおかしくないだろう。 そもそも面を付けた見るからに怪しいその男は、人間であると静雄の勘が告げていた。付け加えるなら、人外のモノがそんな世俗的な質問をするとも思えない。 「何だ、てめぇ」 低い声で唸った静雄に、しかしやはり男は怯むことなく、ただ誰かを思いだすような演技がかった仕種で首を振った。 「ふむ。何、とはまた哲学的な質問だ。俺は俺であると他でもない俺は思うわけだが、その俺とは何か。生物である動物である人間である。広い定義であればいくらでも規定できるが、俺でしかない俺を説明するための言葉を探すのはとても難しい。俺は人である。君も人である。ならば俺は君なのか。違うというなら何が俺を俺たらしめているのか。俺を構成するものと君を構成するもの、どれだけ違うだろうか。俺と君を区別するものは何か。物理的な非連続性か、あるいは意識だとかいう目に見えないものか。そもそも意識とは何か。脳のつくりだす幻想ではないのか。となれば俺はただの電気信号なんだろうか。考え始めると奥が深いな。ところで何、と聞かれた答えが電気信号で君は納得するか?」 「あ?」 この時点でこの変人が何であろうと、いけ好かない奴であることは確定だった。 ペラペラと大して意味のないことを、人を煙に巻くためだけに連ねる人間は嫌いだ。信用できない。 しかしながら手を出さなかったのは、男に敵意がなく、またこちらに手をだしてくる気配がなかったからだ。 いつでも逃げられる、そこそこの距離から近付いてくることがない。 付き合ってやるのも馬鹿らしい気がしたのだが、しかし立ち去ろうにも狭い道を塞がれ、仕方なくタバコに火をつけた。 「んなこと聞いてねえ。変な理屈こねやがって。手前友達いないだろ」 「成る程。なら何を聞いてるんだ?」 「てめえの名前や仕事なんざ興味ねぇ、面見せろつってんだよ」 足を踏み込み、距離をつめる。 面に手を伸ばす。 逃げるかと思った男はしかし微動だにしなかった。 弾き飛ばした狐の面が宙を舞い、現れた顔に静雄は息をのんだ。 「ひょっ…………とこ?」 思わず間の抜けた声が零れた。 面の下から現れた、面。 おどけた顔のそれは日本の文化的な面ではあるが、人を馬鹿にしているようにも思える。だがあまりに馬鹿らしすぎていっそ気が削がれてしまった。 こういうのを唖然、というのだろうか。 「いきなり酷いな」 ひょっとこが大して酷いなど思ってないそぶりでぬけぬけと言う。 まるでお前の行動などお見通しだとでも言わんばかりのその態度に、臨也に感じるのに似た苛立ちが募った。 何かに似ていると思えばノミ蟲に似てるのだ。最悪だ。気付けば不快さが増した。気付かなければよかった。 最高に不愉快ではあるのに、相手に敵意がなく、手をだしてくる、あるいは臨也のようにナイフを翳してくる気配が一切なければ自販機を投げつけるほど頭に血がのぼることもなく、キレれられない。 知らなかった気持ち悪さに苛々とタバコのフィルターを噛んだ。 「どこがだ。ふざけやがって」 「その決めつけも酷い。俺がやむにやまれぬ事情で面をつけてるとは考えないのか?」 「あ? んだよ」 「例えば、首がないとか」 囁くように言われた一言に、思わずぶちりとフィルターを噛み切ってしまった。口の中に残った残骸を吐き捨てる。地面に落ちたタバコは足で消して、あとで回収しようと誓った――こういうマナーは守らないといけない。 「てめ」 首がない。 わざとらしい言葉選び。 セルティのことを知っていると、更にセルティのことを知っている静雄を知っていると暗に匂わせていることは、いくら言葉の裏を読むのが苦手な静雄でもわかった。 だがそれを伝えてくる意図がわからない。 と、いうか。 「あんじゃねーかよ、首」 ヘルメットならまだしも面の後ろに隠しきれない頭が見えてる。 「例えだよ、例え。わかりやすいだろ? 安易に手を出すべきじゃないものの例えだ。こだわるなら言い直そうか。そうだな、この面の下には顔がないかもしれない。こんなとこか」 「じゃあどっから声だしてんだ」 「おや、聞いていたより頭が回るようだ。だが例えと言ってるだろう。実は昔火事にあってね。面の下はひどく爛れているんだ。まるで化け物だよ。人に見せたいものじゃない」 しんみりとした口調で続けられ、静雄は眉をひそめた。 「嘘だな」 いちいち胡散臭い。 こういう勘は外したことがないのだ。根拠のないと他人には言われるかもしれないが、はっきりとした自信を持って断定した静雄に、ひょっとこはふむと何かを考えるそぶりを見せた。 「しかしこの面はなくてはならないものなんだ。俺を俺だと気付いてもらうのに必要なものでね」 ひょっとこはわけのわからないことを意外にも真剣な口調で語る。 「ひょっとこに知り合いなんざいねえ」 「いやいや君にじゃない」 何かを含んだ言い方に、ふと一人思い浮かんでひくりと口元が引き攣った。 気持ちが悪い。 全て誘導されている気さえする。 「ノミ蟲か」 「そう、折原だ。あいつは俺の顔を知らないからなあ。仮にも情報屋を名乗るならそれくらい調べられて然るべきだろうが、知らないなら仕方ない。こちらが譲歩してやらないと」 ひょっとこは静雄の言うノミ蟲が折原臨也のことであると正確に認識していた。 「あいつの客か? なら」 こんなところで油売ってないでさっさと追い掛けたらどうだと言いかけた言葉を遮るようにひょっとこは言った。 「いやあ俺ももう歳かな。あいつは元気だな全く。まあ君にも言えることだが、若いっていうのはいいね。もちろん歳をとるというのもまた乙なものだが。メリットも腐るほどあるがしかし、体力だけはいかんともしがたい。俺なんかもう階段が腰にくるからな! 全く追い付く気がしない」 はっはっはと軽快に笑うひょっとこはあくまでひょっとこなので外見から年齢はわからない。 声を聞く限りそう年をとっているようにも聞こえないのだが。 そんなことに気をとられていたらその後に続けられた言葉は聞き逃してしまった。 まあ大した問題はないだろ、ととにかく追い払うための言葉を探す。 「用がないならさっさと帰れ」 「まあそう言うなよ。最近の若人は冷たいな。せっかく年甲斐もなくこんな格好までして外に出たんだ。何かしらやって帰りたいじゃないか。っていうかこれだけ年寄りアピールしてるんだからちょっと労ってくれ」 そんなこと言われても、言ってやるべきことなど一つしか思い付かない。 静雄は出来るだけ自分を宥めようと、二本目のタバコに火をつけ一度深く吸った煙を吐き出した。 「帰って寝ろよ」 我ながらなかなか温厚な一言を選べたように思う。 「ははあ。成る程。君は夜の楽しい池袋に爺は不似合いだと追い出そうっていうのか。ひどい若者だ」 被害妄想も甚だしい。 というかそろそろ鬱陶しいのだが。 「まあ聞け平和島」 静雄のまとう空気がどれだけ不穏なものになろうとも、ひょっとこはまるで気づいていないかのように、いや、気づいていて意に介していないだけなのだろう、自分の言いたいことだけを言い募る。 「君の助言通りもう帰ろうと思うが」 「ああ帰れ帰れ」 「しかし何も為さないで帰るのも何だからな。せっかくだ、君に一ついいことを教えていこう」 「あ? んだよ」 聞く姿勢を見せたのは、興味を引いたからではない。 もうなんでもいいから適当に追い払ってしまいたかっただけだ。ただし自分から背を向けるのはそれはそれで腹立たしい。 おざなりな台詞に、にまりとひょっとこが笑う気配がした。それに伴い変わらないはずの面の表情も笑っているように見えてきた。 「魔法の言葉だ」 ひょっとこはさらりと言った。 もったいつけた割に重々しさのかけらもない。 内容も馬鹿ばかしいにも程がある。 「はあ?」 驚くよりも呆れた声が出た。 それは、テクマクマヤコンとか、そういう……。そういった類なら、静雄に言うよりも狩沢あたりに教えてやったら喜ぶだろう。 胡散臭いを通り越して、ついつい可哀相な人を見る目で見てしまう。 「君の嫌いな折原臨也を言葉でやり込めることができる言葉を教えよう。うまく行けば二度と顔を見なくて済むだろう。君は暴力は嫌いなんだろう? 人を傷つけたいとは思わないんだろう? 暴力をふるわずに、穏便に、大嫌いな折原とさよならできる魔法の言葉だ。うまくいけば永遠に」 一見悪魔の囁きのような甘言に思えなくもなかったが、不思議と心は揺れなかった。 「くだらねえ。何企んでやがんだが知らねえけどな、やりたいんだったら手前でしろ」 「いやいやいや人と見れば疑ってかかるのは良くないな。実に良くない。企んでなんかいるものか。折原と君がどうなろうが俺には全く関係ないんだからな。親切心だと言えば疑われるなんてなんてせちがらい世の中だろう」 「胡散臭せぇんだよ」 「まあ、聞くだけ聞けよ。知っていて損はない。俺がなんで教えてやろうと思ったかといえば、基本俺に害がないからだ。利益もないがね。袖振りあうのも多少の縁と言うしな。そしてその言葉を使うか使わないかは君の自由だ。戯言と聞き流すもいい、可能性に賭けてみるのもいい。俺は別に使えと強制してるわけじゃない」 ひょっとこは、とめる間もなく流れるように続けた。 「君は次に折原臨也に会ったらこう言うだけでいいのさ」 そう、聞きたかったわけじゃない。 ただ、耳に入ってしまっただけなのだ。 「俺は―――――――――――――ってね」 それが本当に性質の悪い『魔法の言葉』だなんて、思いもしなかった。 next |