clap log 1 「猫」


 途切れることのない音がする。
 耳元でうるさく。
 必死で己を呼ぶ妹のそのか細い声さえかき消そうとするかのゆうに。

 降りしきる雨。
 何故こんなときに、と忌々しくて仕方がない。
 睨みあげてみるが、一面を覆い隠した黒い雨雲は途切れることを知らず、どんなに願おうが祈ろうが幼い声が聞き届けられる可能性は極めて低かった。

 天気は自然のものだから仕方ないと納得するには余裕がたりず、悪意を疑ってしまったとしても責められる余地はないはずだ。
 そうやってない余裕のどこかで、こんなどうでもいいことを考えてる自分がいっそう情けなかった。
 嘆いても――嘆くだけでは、何も生み出さないというのに。

 どうなかしなければと思う。
 決意は切に、しかし希望は儚く。

 考えろ。
 どうしたらいい。
 出来ないと嘆くな。
 出来ないのはやらないからだ。


 腕の中、ぐったりとした妹の姿は焦りを生み出すけれども、だからこそ冷静にならなければならない。
 ここで選択を間違えればこの貴い命は失われてしまう。
 永遠に。失ってしまう。
 それだけは駄目だから。
 

 考えろ。
 助けるために。
 答えはきっとあるはずだから。
 見つけられるはずだから。
 生きるために。
 一緒に生き延びるために。



 愛おしい声に大丈夫だよと言ってやる。
 ここにいるから。
 絶対に助けるから。
 なんとか、するから。
 だから――あと少しだけ頑張って。


 妹の身体は軽かった。
 温かかった。
 もはや自分で動く体力すらなくなってしまった彼女を抱えて、彼はそれに背を向けた。
お母さんと妹が呼ぶけれど、それはもう母ではなく。護ってくれる絶対の存在ではなく。
 赤く染まり、体温を失い、動かず、呼んでもくれないそのものは、――すでにモノだっ
た。

 縋ろうとする妹を力がないのをいいことに引き剥がした己はきっと、最悪だ。
 けれども生きるために。
 だって生きているのだから。
 彼は背を向けた。


 これ以上体温が奪われてしまえば、一晩中母を呼び続けた彼女も連れて行かれてしまう。
 それだけは――、させない。
 絶対に。

 そう、だからまずは雨を凌げるところを探して。






























 例えば。
 例えば友人が昨日はキレイだった顔に傷をつくって今日現れたら。
 それはどういうことか。

 だいたいはオプションで決まる。
 赤く腫れた頬にひっかき傷でもあればそれは女だ。
 間違いない。
 痛々しい内出血で変色した口元に肌の切れたところでもあれば喧嘩だろう。
 特殊な場合に虐待やらの一方的な暴力も考えられなくはないが、とりあえず選択肢からは外しておきたい。
 となればあとは転んだだかぶつけただかあるいはぶつけられたかもしれないが、事故。
 こんなものだろうか。


 では頬に一つ絆創膏。
 これはどこに入るのか。


 事故。
 事故でいいのだろうか。
 だが事故とは予期せぬ事がおこるから事故なんじゃなかろうか。
 例え予測できても対策をとるだとか自信をつけて臨んだ末の出来事なのではあるまいか。
 確実にそうなるとわかっていてあえてのそれは果たして事故に入るのか。
 今は関係ないが、おりる保険金だって少ないのだ。

 リヴァルはふかあぶかとため息をついた。


「またやったのかよ」

 あきれ果てて疲れさえ滲んだ彼の言葉に傷の持ち主はその柔らかな雰囲気を困ったような微笑に変えた。

「ああ、うん、まあ、ね」

 なんとなく歯切れの悪い返事は彼にも自覚があるからだろう。

 そろそろ諦めろ。
 本気で思う。
 もともと何事にも頓着しない性質の彼は周りが顔をしかめるほど怪我が多い。
 幸いに異常なほどに卓越した運動神経をもって大事に至ることは今までなかったが、むしろそれがあだになってはいまいか。
 言ってもわからないタイプは一度本当に痛い目をみないとわからないのだから。
 いつか取り返しのつかないことになったらどうするつもりだとは友人としての正直な思いだ。

 今はそこまで大きな話ではないが――なにせ絆創膏でこと足りるような傷一つだ。
 とはいえこう学習せず何度も繰り返されれば人事ながら言いたいことの1つや2つでてくるというもので。
 どうしたんだではなくまたかといった言葉がでてくるあたりから諦めが悪いのレベルではなく少しは学べレベルに格上げだ。


 絆創膏の下、容易に予測できるひっかき傷は残念ながら女性関係など食いついていかたくなるようなおいしい話題ではない。


「厭きないよなあ。っていうか諦めろよ。しつこい男は嫌われるんだぞー」

 一見ストーカーのように聞こえるがもちろんそんな話ではない。ですらないとも言いた
い。
 だいたいにしてだれそれが好きだとか浮いた話一つ聞かないのはどうなのか。
 追いかけるのは猫ばかり。
 そう、猫なのだ。
 紛れもなく正真正銘動物の猫。
 小さくてニャーとなく猫。

 彼は動物好きなのだが、なんの因果か反比例するようにいっそおもしろいほどにその動物に好かれない。
 構いすぎるから悪いのか、動物に嫌われるような匂いでも発しているのか。
 原因は定かではないが。
 しかしながら賞賛――とはいえこの場合あまりいい意味ではない――すべきはその執念だ。

 どれだけ嫌われようと。
 どれだけ引っかかれようと
 どれだけ噛み付かれようと。
 
 諦めない。


 忍耐強いは美点か。


 ――否か。



 手を伸ばすのをやめない。
 その手が無傷だったことなどないのに。



 そうして一日一日と傷が増えていく。
 女の子ではないのだしそう神経質になることもないとリヴァルだってそう思うのだけれども。
 ふられてふられてふられてふられてふられて以下略を延々と続けている友人の姿を見ていると、なんだか切なくなってきてしまうというのが人情だろう。
 お前もうやめろよともう何度言ったことか。

 でも次は大丈夫かもしれないし。
 もしかしたらなついてくれるかもしれないし。

 前向きなのはいいことか。



 本当にいいことなのか。


 世間一般の価値観に疑問を覚える今日この頃だった。





























 妹を連れて歩き回るのは無理だ。
 それはただの事実だった。
 何がおこるかわからないから心配で仕方なかったのだけれど、なるべく注意深く見つからない場所を探して、動かないよう言いつけた。
 置いていって何かあったらと考えるだけで目の前が真っ暗になるような感覚におそわれるけれど、それ以上を考えつけなかった。
 これが最善の方法なのだとまるで言い聞かせるように繰り返し、足はどんどん速くなる。

 はやく。
 一刻も、一秒でも。
 早く。






 探さなくては。































 むくわれない片思いをし続ける友人に、その思い人――いや、人じゃないけど――のほうから歩み寄りを見せたとき、リヴァルはきっと友人として喜ぶべきだったのだ。
 だがしかし。
 そんな事態に陥って、リヴァルが最初に覚えた感情は純粋な驚きだった。
 そして立礼ながら疑問。

 これは現実なのかから始まった。
 夢なんじゃないのか――どうせならスザクが見れたらよかったのになと無駄な優しい心まで発揮してしまった。





「あ、猫。仔猫だ」

 可愛いなあと呟く友人はもうだめだ。
 すでに行ってしまっている。
 待てとの言葉が届くより早く。
 音速よりも早いってどんなスピードだ。


 黒い、やせ細った仔猫だ。
 よたよたと、すれでも前を見て、歩みは止めず。



 

 驚いたことに動物の天敵、枢木スザクがおいでと手を伸ばした、そこに、身をよせた。








 やっぱり夢だろうか。
 それとも趣味が悪いのだろうか。
 あるいは誰でもよかったのか。



 答えを知るものはない。